■駅って、どーよ?【駅】

artc20020701今回は「駅」がテーマです。
残念ながら、旅情あふれる「駅」ではなく、私たちが毎日通過する「都市交通」としての「駅」です。
一見、マーケティングとは何の関係もなさそうな題材ですが、生活者が利用している限り、どんなものでもメルマガのテーマになります。
駅が身近でない方、今回はごめんなさいの記事です。

駅が変わりつつある

駅。
主に首都圏で親しまれている空間です。
かつては首都圏や大都市以外の街でも、駅が出来上がることは産業の発展に非常に大事なことであり、政治家の大きな活躍(暗躍?)の場でした。
しかし、クルマの発達と普及によって、地方都市では公共機関である鉄道自体が使われなくなって久しくなりました。
今や通勤はクルマで・・という家庭が多いからです。

それでも、首都圏や大都市圏内では鉄道が主な移動機関であり、そこに住む限り、私たちは「駅」という空間と否応なしにつきあわなければなりません。

その駅が徐々にではありますが、変わってきました。
単なる売店だけでなく、写真フィルムのDPEサービスは古くからあり、最近ではコンビニや専門店まで出現し、渋谷の「ランキン・ランキン」のように新コンセプトのコンビニ・スタイル雑貨ショップも出現する。

また、飲食も変わりました。
新宿駅南口構内にあった古いタイプの立ち飲みコーヒー店の代わりにドトールが出現。東京駅新幹線ホームのバカ高い弁当屋に加えて、コンビニスタイルの弁当売場コーナーが設置される。

とうとう渋谷駅にはユニクロが出店。
ネットからダウンロードしてMDにコピーできる自動販売機が出現したと思ったら、ネットで注文した書籍やCDをJR駅で受け取れる取り次ぎサービスも開始されました。
この分では、銀行のATMや食品スーパーのような店まで出てきても、何ら不思議はありません。

駅は便利になりました。
競争がないために、まずい立ち食いそばにつきあう機会が減りました。
ちょっとしたコンビニで買える品物も「通勤のついでに」手に入るようになり、時間がもったいない私のような人間には大歓迎の変化です。

この変化の裏には鉄道会社の努力があります。
「駅という空間を快適に」といった趣旨のポスターを何回も見ました。彼らは駅に付帯するサービスを改善しようと一生懸命です。

鉄道会社は収益が上げられる。私たちは便利になる。
こんな良いことはありません。

しかし、どうにも腑に落ちないのです。
マーケティングの観点から見れば、鉄道会社が金を儲けることには全く異存はありませんし、駅という空間に付加価値を見いだすことも問題なしです。

また、小売り商売の基本である「人が集まる場所」を何もせずに放置することほどもったいない話はありません。
ましてや、「駅」という空間は「半軟禁状態」です。一旦切符を買って入ると、なかなか出ることができない。その「タコ部屋」空間が少しでも快適になるのなら、利用者のニーズにもはまるでしょう。

しかし…しかしなのです。
何かが根本的にスッキリしないのです。
今回は、そのスッキリしない私の疑問を解いてみようというのがテーマです。
かっこよくいえば、

「駅という空間は私たち生活者に何を与えてくれるのか」

ですが、森流にいえば、

「駅ってさぁ、結局のところ、俺たちにとって、どーよ」

です。あっ、2ちゃんねる風?(笑)

駅が身近でない地域の読者の方、今回はごめんなさいです。

駅の「音」

一時期、海外のメディアが日本を紹介する時に、お約束のように流れた映像が朝のラッシュアワーの情景でした。
鉄の箱から次々と、しかし整然とはき出される「東京人」という生物が、さながらレミングスのようにどどどっと流れていく。

「へぇ、外人にはこんなのが珍しいんだ」

と昔は思っていました。

その後、人口30万人程度のアメリカの田舎に住んでみて、納得した覚えがあります。30万人といえば岡山市の半分の人口ですが、面積は3~4倍もあるのですから、あんなに人が密集する情景なんて、数年に1回開催される移動式遊園地やサーカスくらいしかお目にかかることができません。

私たちが中国上海市のシーンをテレビで見ると、必ずといって良いほど自転車に乗った大量の人たちの映像が使われているのと同じような感覚なのでしょう。

だからでしょうか。

「駅と聞いて最初に思い浮かべるイメージは?」

と聞くと、大抵の人は

「朝の混雑」

と答えます。
私はそれに追い打ちをかけます。

「それはどんなイメージですか?」
「人いきれ」
「足音」
「ホーム内アナウンス」
「発車の音楽」
「電車の走行音」

が代表的なものでした。

ん?よくよく見ると、5つの要素のうち「音声」が4つも占めています。

「日本の鉄道って、何であんなにいちいち車内放送や駅の放送が多いの?
しかも『次(の駅)は…』とか『黄色い線の内側に…』とか、子供じゃあるまいし、責任の自覚があるドイツの大人ならバカにされた気分になるよ」

私の学生時代からのドイツ人の友人です。彼は年に数回日本に訪れるだけでなく、2年ほど日本に住んでいたことがあるだけに事情通です。
駅のうるささは、彼だけでなく日本語が分からない外国人も多く指摘することです。

ふと、気になって、周囲の日本人にたずねてみました。

「駅をうるさいとは思ったことはなかったです。
もちろん、静かではありませんが…」

代表的な意見でした。
あれれ?日本人とドイツ人とで音に対する敏感さが違うのでしょうか。

「新幹線のホームはムチャクチャうるさいですよ。
在来線がホームに停車する時間なんてものの1分ですが、新幹線はずっと止まっているじゃないですか。
アイドル状態のあのエンジン音は耳障りなんてもんじゃないです」

地方への出張が多いビジネスマンの友人です。

「私がうるさいと感じたのは携帯電話を使い始めてからなんです」
「え?」
「それまでは、何も感じませんでした。
でもね、新幹線のホームで携帯電話の相手の話なんて聞き取れない。
『え?え?』の連発です。
クルマがばんばん走っている道路の比じゃない。
それで初めて気がついたんです。新幹線ホームのうるささに」

これでピンと来ました。
先ほど「駅なんてうるさくない」といっていた友人たちに、再度質問です。

「あのさあ、山手線駅ホームで携帯電話を使ったことある?」
「もちろんありますよ」
「それって、どおよ?ビル内とかと比べると、相手の声の聞き取り具合とか」
「あっ、駅って、携帯電話では聞き取りにくいですね」
「それじゃあ、ホームに電車が入ってきた時は?」
「うるさい、うるさい。というか、ほぼ話すのを諦めますよ。
…あっ、駅ってうるさいですね(笑)」

さて、最後の仕上げです。
この一連の質問をした友人たちに、1週間後に再び質問をします。

「ねぇ、もう一回聞くけど、駅ってさぁ、うるさいの?」
「あはは、森さん、言われなくても分かっていますよ。
実はあれから駅の騒音が耳について大変だったんです。
よくもあんな騒音の中にいて『うるさいと感じたことはない』なんて言えたなぁと自分で感心しているのですから。
元に戻るまで数日かかりましたよ」

一連の質問は誘導ではありません。
今まで何とも思っていなかった感覚が、あるきっかけで「正常に戻る」。
よくあることです。

心理学に「カクテルパーティ効果」という理論があります。
パーティで周囲がざわついているのに、自分の会話相手の声はきちんと聞こえる能力が人間には備わっているというものです。
別な言い方をすれば、人間には自分の興味があるものとないもので、それらを選別する聴覚の力があるのです。

自分の名前を言われると敏感になり、他人の噂などには馬耳東風という輩がいるのはそのためです。
また、ガード下に住むことができるようになるのも、その能力のおかげです。

どうも我々は駅の騒音に関して言えば、「慣れさせられている」ようです。
誰にって?もちろん鉄道会社に、です。
本来ならば不快なハズの音声や騒音。
私たちにとって快適でも何でもない駅ホーム。
それなのに「駅ライフを充実」なんて、どこの口から言えるのでしょうか。

騒音のように、私たちが知らない内に「当たり前」だと思わされている事柄なんてもっともっとありそうです。

「駅」は安全か?

1つは簡単に見つかります。
駅ホームの危険性です。
私たちが都会で暮らす中で、最も危険な場所はどこか?

大抵の人からは
「(高速)道路」「工事現場」といった回答が帰ってきます。
確かに交通事故は通行人にとって怖いものです。また、普段気を使わない上空から鉄柱が落下してきたのではたまりません。
そう回答する気持ちも分からないではありません。

しかし、大抵の道路にはガードがあります。歩道橋があります。
工事現場も作業員だけでなく、通行人の安全確保が義務づけられています。
従って、安全とは言えませんが「最も」危険な場所ではありません。

しかし、駅ホームは違います。むき出しです。
ホームには柵がありません。
正確に言います。
ほとんどの駅ホームにはガードがありません。一部、柵つきの駅はありますが、極々わずかです。
私たちの身を守るのは

「黄色い線の内側にいる」
「酔っぱらって駅ホームに行かない」
「貧血を絶対に起こさない体質に変える」
「混雑で人に押される危険性のある時にホームにいない」

だけなのです。
なのに、「電車」という名前の数百トンもの鉄の塊が滑り込んでくるのが駅ホーム。

理屈を言えば、電車は線路以外を走ることはありませんから、事故が起きるとすれば、私たちが線路という「神聖なる場所」に踏み込んだ時だけです。
つまり、ホームでの事故(例えば転落事故)は鉄道会社にとって

「俺たちは何の責任もない。
『入るな』といっている場所に入る方が悪い」

という発想です。

これを翻訳しましょう。
「黄色い線の内側にいなかったこと」はまだしも、

「酔っぱらって駅ホームにいるのがいけない」
「貧血を絶対に起こさない体質に、変えなかったのがいけない」
「混雑したホームにいるのがいけない」

という発想だということです。
道路のガードレールはその逆です。

「クルマというどこに飛び込んでくるか分からない危険な物体から、歩行者を守るためにある」

であって、間違っても

「歩行者と呼ばれる、どこから飛び出してくるか分からない人間からクルマを守るもの」

ではありません。

鉄道にも一見似たような設備があります。
駅ではなく、線路沿いの柵です。
延々と続く線路の柵は私たちを電車から守ってくれるもののように見えます。
しかし、線路際の柵は

「鉄道が飛び出してしまうかも知れないので、歩行者を守るもの」

ではなく、

「いたずらと呼ばれる、悪意ある人間から鉄道を守るもの」

です。
そのことから見ても、鉄道会社の考え方は根本的に180度違うのが分かろうというものです。

以前、JR新大久保駅で酔っぱらいがホームから転落し、それを助けようとした2人の男性が死亡した事故がありました。
その時、私はひどい違和感を覚えたものです。

その2人は英雄として新聞に祭り上げられ、美談の象徴のように書かれました。
確かに勇気あることです。私も認めます。
しかし、それ以前に考えなければならないことがあるはずです。
新聞に短いJRのコメントがありました。

「駅ホームに柵を設置することはできないのか」
「コストがかかるため不可能だ」

私はゾッとしました。
だって、口語体で言うとこういうことなのです。

「うち、儲かんないから、やらんもんね、そんなの」

私の知っている限り、犠牲になった彼らを褒め称えるだけで、誰も彼らが鉄道会社の被害者とは書かない。
英雄扱いをするということは、戦時中に「鈴木さんはお国のために死んでいった英雄です」と何ら変わらない話のすり替えです。

同時に、英雄と呼ぶことは「民衆に、その行為を薦める」ことだとすると、新聞・雑誌のメディアもJRも私たちにこう言っていることと同じになります。

「他人の犠牲になって死んでくれ。
うちら、キミたちの身を守るなんて、儲かんないから、やらんもんね、そんなの」(^^;;;

「駅」が持つ現代の落とし穴

ちなみに、首都圏の場合、私鉄沿線駅ではチラホラとホームの柵を見かけます。たまに使う東急東横線の武蔵小杉駅には立派な自動ドア式の柵が設置されています。
地方では新幹線の駅ホームにも柵がある場合があります。

それこそ、金がかかる自動ドアでなくても良いのです。
道路のガードレールのようなものでも充分です。だって、ホームの乗客が間違えて転落しなければ良いだけなのですから、強度はたかがしれている代物で充分です。

数十年前から、少しづつでも柵を作っていれば、コストの問題もなかったはずです。自分たちが長年怠慢してきたのを一気にやろうとするから、莫大な経費になってしまうだけです。
自分たちの怠慢を横に置いて「できない」と堂々とコメントする神経を私は疑います。

それで済むなら、私はいくらでも

「いやぁ、学校で勉強しなかったら、統計が分からないんですわ、わはは」

とクライアントに言い訳しますって(笑)
ビジネスでそんな子供じみた論法が一切通用しないのは、わざわざ私が言うまでもないことです。

加えて言います。
駅ホームと電車の間には20センチもの隙間が空いており、その下は2メートル近い落とし穴のような空間です。
私が知っている限り、公共の乗り物で、こんなずさんで危険な乗り方をするものはありません。

バスは言うに及ばず、航空機、船舶はすべて乗り物と乗客が立っているところに隙間なんてありません。いや、「足を踏み外すと(海に落ちたりと)危険なので」板状の簡易通路が架け橋のように利用されます。

もっと言います。
古い時代の工場では機械がむき出しで、上着の裾などが歯車に巻き込まれて、手がちぎれたなんて事故は良くある(?)光景でした。
しかし、現代は「自社従業員に対してすら」、安全対策として機械にガードを必ず施しています。

動力で動く機械の大半は「安全第一」を念頭に設計されている。
食品や機械の基本中の基本機能は言うまでもなく「安全」「安全対策」です。

ひとり鉄道だけが

「最も原始的で進化がない、乗客の安全を鼻から考慮していない設計」

になっている。
しかも、安全対策は「顧客なのにも関わらず」不十分すぎるほど不十分…

「駅」は人を選ぶ

さて、駅という施設はハードウェアだけでは成り立ちません。
駅員を中心とした人的機能がないと、私たちはスムースに駅を利用できません。
もとい。駅に入って、駅を出ることすらかないません。

ある日、JR新橋駅で私のイオカードが磁気異常を起こし、自動改札口に拒否されてしまいました。
このままでは、私は駅を出てクライアントの会社に行けません。
そこで、すぐ横の係員詰所に行きました。

私 「このイオカードでは自動改札を出られません」
駅員「清算機が壊れていて、処理ができないんです」
私 「???じゃあ、これ、どうすれば良いのですか?」
駅員「清算機が壊れていて、処理ができないんです」
私 「それは分かったから、『私はどうすれば、この駅から外に出ることができるのか』を教えてください」
駅員「だから、機械が壊れているので精算できないって言っているでしょうが!」

ついに逆ギレされてしまいました(苦笑)
翻訳すると、彼は私に「ずっとこの場所で機械が直るまで待機しろ」と言っているようです。
なので、私は別の出口の駅員詰所にいくことを「自分で判断しました」 (笑)

これは、自分のことしか考えない鉄道会社の体質が端的に現れている例です。相手がどうなるのか、相手の立場がどうなのは知ったことではない。
自分に関わることしか言葉を発することができない。

同じような例があります。
今でこそイオカードが普及したので、その信頼性の低さが分かってきました。つまり、磁気の読み取りが必ずしも完全ではないという事実です。
しかし、導入初期は顧客にとって大変でした。

イオカードで出ようとすると、自動改札機は「係員の窓口へ行け」と通してくれない。
それを伝えると、駅員から犯罪者扱いを受けます。

「あーん?この記録を見ると、3日前に池袋を出てるね。どこへ行ったの?うん?」
「新宿ですよ」
「ホントかな?もっと遠いところじぉないの?新宿だという証拠がどこにあるの?え?キセルでもしたんじゃないの?ああん?」
「冗談じゃない。ちゃんと手帳に記録が残っています」
「そんなもの分からないからね。人間は嘘をつくけど、機械は正直だよ。
分からないから、150円区間じゃなくて、300円を徴収しておくからね。
キセルが発覚したら数十万円を支払ってもらうことになるから、温情だよ、温情」

あきれてものが言えなかったものです。
私はイオカードのイノベーターだけあって、初期の頃から頻繁に使っていたので、そんな経験は5回や10回ではありませんでした。

「自分たちは常に正しい。
客を見たら泥棒と思え。
相手のことなど考える必要なし」

鉄道会社の社員たちはこう教育されているとしか思えない対応でした。

そういえば、おもしろい実験をしたことがあります。
私の利用している私鉄は山手線との連絡口があります。

通勤客が多いその私鉄では定期券を見せなくても、実は素通りができてしまうことが多かったのです。
私も例に漏れず定期券を見せずにそのまま通過することがほとんどでした。

もちろん、真面目な係員だと「お客さん、お客さん、切符を見せてください」と呼び止められます…とばかり思っていました。
ところが、妙な傾向があることに気がつきました。

私はクライアントとの打合せのある日はスーツで出勤しますが、普段はジーンズとTシャツです。
定期券を見せずに連絡口を通過しようとして呼び止められるのはジーンズの時に多いという感覚があったのです。

感覚だけではもの足りません。
そこで、毎日メモを付けてみました。
すると明らかな差が出たのです。

【定期券を見せないので、呼び止められた比率】

スーツの時 7.7% (26回中 2回)
ジーンズの時 59.3% (27回中16回)

「人間は外見ではない。中身なのだ」なんて、世間様では真っ赤な嘘っぱちであることを見事に裏付けたデータでした。

「森さん、森さん。それは森さんがジーンズだと怪しい中年になってしまうからではないですか?」

後輩がニヤニヤしながらコメントします。

いや、確かに当時のジーンズとアタッシュケース姿は、どこかの怪しいモデル・プロダクション社長のように、危なさ全開で・・・
…って、そういう問題ではなーーーい!!(笑)

マーケティング発想の「駅」

「危ないですから、急な飛び込み乗車はやめてくださぁい!
他のお客さんに迷惑ですよぉ!」

文字に書くと大したことがないように見えますが、それを駅のアナウンスで不機嫌そうに(ケンカをふっかけるように)大声でがなり立てる。
東京に住んでいると、こんな光景に当たり前のように遭遇します。

一見すると

「マナーを守らない不届き者を公共機関であるJR職員が注意している」

訳ですから、乗客の責任です。
また、事故でも起きようものならその加害者(?)に皆の非難が集中します。

「人身事故のため、山手線は数時間前から運休しています。
復旧時刻は未定です」

こんなアナウンスも日常茶飯事となっています。
これが私のように最終電車ギリギリに発生するとたまりません。タクシー代金5,000円は自腹なのですから。

ホームにあふれた人たちは一斉に携帯電話を使い、中にはノートパソコンを開いて、ネットに接続する若いジーンズ姿の女性すら見かけるようになります。

しかし、これらは本当に乗客だけの問題なのでしょうか。
人間、特に東京人はギリギリまで粘って、列車に飛び込もうとします。若い人ほど計画性がないから、その傾向が強くなる。
数分待てば次の電車が来るのに、それを待てない。

とりあえずの世間様では

「嘆かわしい。集団行動ができなくなった日本人」

となります。
森個人としては、激しく賛同します。

しかし、マーケティングでは、客の行動を前提として、自分たちがどう対処するかを決めます。

「電車に飛び込むのは、現代人の気質だ。
しかし、一方で『今のシステムでは』危険が大きすぎる。
それなら方法は2つしかない。1つは今のシステムを変える。
もうひとつは現代人の気質を変える。
最も稚拙な方法は『何も変えない』ことである。
なぜならその結末は『生活者に見放される』ことだからである」

童話の太陽と北風の話を思い出してください。
北風は旅人のコートを力ずくで脱がそうとして失敗。
一方の太陽は「旅人が自主的に」コートを脱ぐようにし向ける。
マーケティングは太陽であるように努めます。

法律という強制力のあるもの以外のルールで、民衆(客ではありません)を押さえつけることができなくなっているのは、鉄道会社も知っているはずです。
いや、知らなければならない。
それができない鉄道会社は「時代に取り残された感覚しか持ち合わせない」ハメになります。

それではなぜ現在のシステムを変えないのか。
簡単です。さっきも出てきました。

「うちら関係ないもんね。もうかんないしぃ」

そんな姿勢の鉄道会社が駅でぼろ儲けをしようとしている…
…はい、また、話が戻りました (笑)

貨物を扱う「駅」

結局のところ、根っこはすべて同じなのです。
顧客を顧客と思っていない。
いや、人を人と思っていない。
過去記事を読んだある鉄道会社の現場の職員の方がメールが来たことがあります。

「私たちはあの大量の人を見続けて、客を人と思う感覚がなくなっています」

仕方がないことでもあります。
銀行員が札束を手にとって「お金」だと思わない、産婦人科の医者が女性性器を見て「患部としてしか見ることができない」のと同じ。
毎日毎日、あんなに大量の人が吸い込まれて、はき出される光景を見ていたら、「意志を持った人間に見る」感覚が麻痺してしまうことは容易に想像がつきます。

乗客が人間ではなく貨物と同じだとすると、これまでお話ししていたことがすべて納得できます。
駅の騒音対策や駅ホームの安全対策は必要がありません。だって、荷物なのですから、彼らがどう扱われようが、壊れなければよい。
いや、壊れたら「鉄道会社や他の乗客に迷惑をかけたから、損害賠償を請求」すれば自分は痛くない。

社会的にも「酔った乗客が悪い」と言い訳をしても通用する常識を作っておけば批判は免れる。
ましてや、それを助けようとして死んでしまった人間を「英雄扱い」しておけば、世間の目をそらせることができ、鉄道会社が非難されることはない。

乗客が貨物だから「精算機が壊れた」をオウム返しに言い、相手の立場に立つ必要がないし、服装だけで泥棒かどうかを判断すれば良い。
そう。

「乗客は貨物なのだ」

の発想がすべての原点です。

これまで見てきたように、駅の基本機能はまだまだ未熟です。
いや、現代の首都圏や大都市圏の進化に着いて行っていない。
どんどん後退しているのが放置されています。

それなのに、鉄道会社がやっていることといったら、「駅サービスの充実」という名の小手先の目つぶし商売です。
小売業の基本が「一旦入った客を回遊させて、滞店時間を長くさせる」ことである限り、あの不十分な機能しか持たず広くもない「駅という空間」に私たちを閉じこめることが最も有効であるという皮肉な結論になるのです。

京王線が半年前に運賃を値下げしました。もしかしたら、どこかにカラクリがあるのかも知れませんが、今時の鉄道会社としては珍しい動きです。
個人的には、そのお金を駅の基本機能にこそ使って欲しいとは思いますが、少なくとも努力の跡はちゃんと見られます。

また小田急線は、「小田急は、今年度442億円を投資して、輸送サービスの向上に取り組みます」とヘッドコピーを配置したポスターを駅に貼っています。
その中で「輸送力の増強」「サービスの向上」と並んで「安全対策の強化」と「環境対策の推進」を上げています。

しかし安全対策は「立体化による踏切の廃止」「非常用ボタンの設置」でとどまっており、環境対策は「列車走行音や振動対策」や「ロングレール化」といった住民対策だけです。

「都市機能として重要な公共大量輸送機関」である鉄道なのに、旧国鉄の怠慢が残した傷跡は大きい。
このままでは、他の輸送機関にシェア(乗客)を奪われる可能性は否定できません。

例えば、鉄道はすでにクルマにシェアを奪われました。地方都市ではドアツードアの需要がクルマ需要の原動力ですが、大都市圏のクルマ需要の多くは「駅での混雑回避」ニーズがすでに顕在化しているのは皆さん、ご存じのとおりです。

それ以外にも、IT化や効率経営を推進する企業やSOHO人気が進める在宅勤務は、その最たるものなのかも知れません。
少なくとも「あの混雑(や居心地の悪い鉄道)から逃れられる」のは大きなメリットだからです。

その商品やサービスを使わないで済む方法があるなら、一気に需要が流れる危険性を持つ産業。
携帯電話の普及によって、汚く、その都度お金を支払わなければならない公衆電話が消えていってしまったように。

鉄道会社もその轍を踏む可能性が充分あることに早く気がついた方が良い。
おせっかいな私はそう思います。
鉄道会社は議員が援護しようが、政治が介入しようが、許認可権で既得権が守られようが、需要という名の生活者の束に勝てるはずはありません。

小手先の「駅サービスの充実」に惑わされない、賢い生活者に愛想がつかれる前に。

【使用画像】朝日新聞
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