■ジェットの大逆転劇【プリンタ】

SDIM

夢の技術が詰まった箱

カウンター越しの男に15万円が入った封筒から札束を抜き出して渡しました。
慣れた手つきで1万円札を数え終わった彼は、代わりに大きな段ボールを差し出します。
彼の後ろには段ボールが山と詰まれ、倉庫だか事務所だか分からない怪しい雰囲気が漂っていました。
でも、その段ボールには、私にとって夢のような未来技術が現実となって詰まっていたのです。

今から20年数年前の出来事です。
その場所は秋葉原にあり、今や関東電子と呼ばれる由緒正しき(?)パソコン周辺機器販売会社、そして未来技術の詰まった機械はSIDM(シリアル・インパクト・ドット・マトリクス)という技術を使ったエプソンのプリンタ、PK-80でした(型番はうろ覚えですが)。

当時、私が持っていたPC-8001というパソコンの名機と呼ばれたモデルは168,000円。プリンタはパソコンと同じくらいの高価な買い物でした。

しばらくして買った144KB(メガバイトではありません。悪しからず)の「片面倍密度」の5インチフロッピードライブは328,000円でしたから、パソコン本体より周辺機器が高いのは当たり前の時代でした。

当時の私の手取りの給料が9万円台。
セットで100万円近い買い物は優に年収分の金が吹っ飛んでしまう代物でした。社会人に成り立ての24才の若者にとって、パソコンは趣味と言うにはあまりにも贅沢です。

それでも、私は満足でした。
最新技術に触れることができるというだけで胸が高まり、ワクワクしたものです。
私の年収を吸い取った鉄の塊で何をする訳でもありません。

だから、独身寮の経費計算プログラムや競馬予想プログラムを作っていました。
寮に協力したかった訳でもありませんし、競馬で金を儲けたかった訳でもない。
パソコンを触るための目的を探していただけです。

もっとも、私の競馬予想プログラムは図書館で集めた膨大なデータをベースにしたモデル式を作ったおかげで、勝率72%とかなり高く、パソコン投資金額のほとんどを回収してしまいましたが(笑)。

話がずれました。
今回のテーマは私の競馬予想プログラムの自慢話ではありません。
元に戻しましょう。

コンピュータは年々進化し、パソコンは心臓部に限っていえば、数年前の大型コンピュータと肩を並べるほどだと言われました。私は大型コンピュータの名機と言われるIBM-360を大学時代に使っていましたが、数年後に発売したPC-8801というパソコンはそれを凌駕したと言われたことを思い出します。

しかし、パソコンと大型コンピュータの最大の違いは入出力機器の性能であるとも言われてきました。
パソコン用フロッピーディスクより大型コンピュータの記録テープのスピードは数十倍も早く、ラインプリンタと呼ばれる1行を一度に印刷してしまうプリンタはパソコン用プリンタより百倍も早い。

プリンタはパソコン本体と比べて物理的に動く部品が多く、飛躍的な技術進歩は実現しにくいという欠点があるので、仕方がないところもあります。
それでも、この20年、いやここ数年のプリンタの進化と普及には目を見張るものがあります。

マーケティング史に残る大逆転劇

円グラフそのどさくさの中で、大きな変化がありました。
一時期、家庭用プリンタで2位だったエプソンがダントツ1位のキャノンを押さえ、トップに躍り出たのです。
それだけではありません。今やエプソンはインクジェットプリンタの市場シェア50%を占めて、ガリバー企業になってしまったのです。

一般にはあまり知られていませんが、その逆転劇はキリンラガーに対するアサヒ・スーパードライやカメラ市場でのα-7000(ミノルタはすぐにトップをキャノンに取り替えされてしまいましたが)と同じくらいのインパクトがあったのです。
マーケティング史に残る隠れたドラマなのです。

その割に、プリンタ市場を真っ正面からとらえた記事はそう多くありません。
これを放っておく手はありません。
「私はこう見る」の格好のテーマとして有効に活用させていただきます。

そこで、今回はパソコンの名脇役ともいうべきプリンタをテーマとします。
前半を除き、できるだけ技術的な細かい話を避け、マーケティングや生活者をメインにしたつもりです。いつものとおり、気軽にご賞味ください

それからいつものように視点をちょっとだけ絞ります。

「かつての王者、キャノンは復活できるのか」

です。

特に、今年11月、キャノンは7年ぶりに(スペック上では)エプソンを越えた性能の新製品を市場に投入しました。今回の記事は年賀状シーズンを控えた時期に間に合うようにと書き上げたものです。

なお、この記事では正式名称「キヤノン(「ヤ」が大文字)」ではなく、一般的な呼び方である「キャノン(「ャ」が小文字)」で統一します。ご了承下さい。何せキャノンにお勤めの読者も多く、以前苦情メールを頂いてしまいましたので。

プリンタの歴史は技術の歴史

SDIM2まずはお約束のパソコン用プリンタ市場の歴史です。
それは長らく技術史でもありました。
パソコンは1979年に日本に姿を現しました。プリンタも同時期(1978年12月)にエプソンから登場しています。

最初に、お目見えしたのが私が買ったSIDM、通称ドットプリンタです。
これは、縦1列に並べた8本や16本の鉄の針を紙に打ち付けて印刷する方法です。そのままでは紙に穴が空いてしまいますから、インクを染みこませた布製のテープ(インクリボン)を挟みます。

これがまた「ビービー」とうるさいのなんのって。
独身寮で夜中にプリントアウトしようものなら、先輩たちの反感を食らうこと必至でした。

エプソンはこのドットプリンタ市場でNECと肩を並べるトップメーカーでした。 NECはPC-9800を初めとする本体の純正品として主にビジネス市場に有利でしたが、エプソンはプリンタ専門メーカーとして認められ、主に個人市場や「純正」という言葉に惑わされない上級ユーザーに支持されていました。

ちなみに、NECは事業部が違う2種類のプリンタを市場に投入し、それぞれがケンカしており、ユーザーにとってはた迷惑でした。
純正事業部のプリンタなら画面と同じ文字が印刷されるのに、NECの他事業部や他社の製品だと違う文字が印刷されてしまう。社内競争の被害者はいつも我々生活者です。

エプソンはドットプリンタを現在でも生産している数少ないメーカーです。競合は沖電機くらいなもの。私の記憶が間違っていなければ、キャノンはこの当時、プリンタ市場に参入していなかったはずです。

次に主流となったのが1984年に出現した熱転写という印刷方式。ドットプリンタから約10年。ワープロ専用機などに搭載されて来た歴史が長いので、身近な読者の方も多いことでしょう。
鉄針の代わりに熱を瞬時に発したり冷ましたりできる小さな突起を縦1列に並べ、熱で溶けるインクリボンを紙の間に挟むことでインクを紙にくっつける方式です。

ドットプリンタと比べて音が静かなのが最大のメリットです。
また、機構が単純なので故障が少なく、装置自体が安くできるのも大きなメリットです。
パソコンと違って初心者が多く、商品価格を抑えなければならないワープロ専用機に多用されたのもうなずけます。

デメリットはランニングコストが高いこと。
熱転写用のリボンは1回つかうとインクがはげ落ちるので、頻繁に取り替えなければなりません。
熱転写はパソコン用プリンタとしても主流になるほど売れましたが、上級者の中には高いランニングコストを嫌ってドットプリンタを使い続けた人も多かったものです。何を隠そう、私もそのうちの一人でした。

熱転写方式は現在でもコンビニやスーパーのレジに組み込まれ、現役で頑張っています。あのツルツルの紙に印刷されたテカテカの文字は皆さんにも親しみがありますよね。

エプソンはドットプリンタに続いて、熱転写方式でもパソコン用ではトップメーカーでした。
ちなみに、実はワープロ専用機のプリンタの70%は、アルプス電気という一般には知られていないメーカー製でした。出荷台数はアルプスの方が多く、実質的なトップだったのです。

キャノンはここでもまだまだ頭角を現していません。
熱転写プリンタは販売していましたが、シェアはほとんどゼロに近かったと記憶しています。

プリンタの主役、インクジェットの再(?)登場

レーザープリンタほぼ同時期にビジネス現場ではレーザープリンタが脚光を浴び初めます。1975年に最初に開発されましたが、高価な機械だったので、しばらく一般には普及しなかったものです。

それが、本体価格が安くなり、一般オフィスでも導入できるようになりました。
ドットプリンタはうるさい。かといって熱転写は遅いし、ランニングコストが高い。
レーザープリンタに注目が集まるのは当然です。

ここで、初めてキャノンが頑張ります。
レーザープリンタはコピー機の光学技術を応用したものです。従って、コピー機のエンジンを作っている会社が圧倒的に有利になるからです。
中でも皮肉なことに当時コピー機でトップシェアの富士ゼロックスやリコーではなく、大きく水を空けられていたキャノンがレーザープリンタの先鞭をつけたのです。

ここで困ってしまったのがエプソンです。ドットプリンタや熱転写では他社に負けるわけがないけれど、レーザーの時代になってしまったらエンジンを他社から調達するしか方法がない。

その結果、コストが高くなるだけでなく、エプソンの光学技術はキャノンに大きく出遅れています。
事実、エプソンはレーザープリンタ市場に参入したものの、まったくといって良いほど売れませんでした。

エプソンの不幸に追い打ちをかけるように、頼みの綱の熱転写がインクジェット方式に取って代わります。

インクジェット方式は決して新しい技術ではありません。
最初の開発は1970年。
熱転写方式と同じ頃にはパソコン用としてシャープなどから売られていました。しかし、インクを細いノズルから吹き付ける方式のインクジェットは、インクが乾いてしまうとにっちもさっちも行かなくなってしまうのです。

当時のマニア達のインクジェットのイメージは、地を這うがごとき低かったのが真実です。

幸か不幸か、そのマイナスイメージはマニアだけのものでした。一般のパソコンユーザーはインクジェットの存在すら知らない。そこに、キャノンが開発した新しい方式がインクジェットの一方式、バブルジェット。大ヒットでした。

インクとヘッドを工夫しインク詰まり対策を施し、そしてスピードを速めたバブルジェットは一気にプリンタの主流となったのです。

エプソンもインクジェット製品は扱っていましたが、お世辞にも性能が良いとはいえない製品群。勝負は明らかでした。

日本ではキャノンと海外で圧倒的な強さを誇るHP(ヒューレット・パッカード)の2強市場になってしまいました。特に、HPは欧米のプリンタ市場で70%以上のシェアを誇る独占企業です。強力なことこの上ない。

ビジネス市場で閉め出され、家庭用市場で出遅れたエプソンは崩壊寸前と思われていました。ビジネス誌にエプソンの倒産説が出たのもこの頃です。海外市場でのドットプリンタの売り上げがなかったら、本当に危なかったかも知れません。

エプソンの不幸の傷に塩を塗り込むようにダメ押しをしたのが、キャノンのA4ブックサイズのインクジェット・プリンタです。重さもたった1.5kg前後。スピードはそこそこでしたが、使わないときに押入や本棚に閉まっておける小ささが日本の家庭事情にぴったり。一気に市場を席巻してしまったのは言うまでもありません。

滑り込みセーフのエプソン

インクこれで打ち止めかと思った矢先でした。
エプソンはMJ-500というモデルでインクジェット市場への鮮烈再デビューを果たしたのです。滑り込みセーフという表現がぴったりでしょう。

キャノンのバブルジェットは気泡を作って、その体積でインクを吹き出す方式です。この方法では、気泡ができる時間が必要であることと、気泡の圧力は基本的に強くないためインクを吹き出す力が弱いので、印刷スピードを速くできないのが欠点でした。

また、インクを押し出す力が弱いと言うことは、インクがポッタリと落ちるところを想像すればわかるように、粒子が細かくできない、つまり画質を高めることができない欠点もありました。

それに対して、エプソンの技術は電気を通すことで金属板をピンと跳ねさせてやり、その振動でインクが飛び出す仕組みです。インクの噴出スピードはこちらの方が早いし、電気を流すことで制御するわけですから、スピードを早くすることはバブルジェットより簡単です。

するとどうなるか。
キャノンは1粒1粒の粒子が粗いので、1インチ(約2.5センチ)に360個のインク粒しか印刷できないのに対して、エプソンはその倍の720個のインク粒が印刷できる(同じバブルジェット方式のHPは300個)。
つまり、圧倒的にきれいな印刷が可能になったのです。

1993年、7年前に発売されたMJ-500はモノクロ機でしたが、翌年の後継機MJ-700v2Cではカラー化を実現。ただでさえヒットした新プリンタにロケットのような勢いが付いてしまった。これがエプソン大躍進の原因となったのです。

MJ-500の投入前の1992年ではエプソンが10%もなかった市場シェアが、カラー機の投入後の1995年に36.1%に急増。一方のキャノンは50%を越していた市場シェアが33.9%に下落。とうとう逆転してしまったのです。

7年後の1999年には、エプソンが50.2%に対して、キャノンは30.7%。大差が付いてしまいます。
キャノンにとって唯一の救いは市場全体が大きく拡大したことです。

95年には170万台しかなかった市場が99年には490万台と約3倍も成長。キャノン自身の売り上げ台数は57万台から150万台へと3倍に伸びました。
もっとも、エプソンは61万台から246万台と4倍にもなりましたが。

エプソンの再登場によって、キャノンは大きなハンデを背負うことになりました。
特に、インク粒360個と720個の違いは面積では二乗比で効いてきますから、エプソンはキャノンの4倍も綺麗だということになります。

キャノンがなかなか技術向上ができずにモタモタしている間、エプソンは1440個にまで性能を上げることに成功。一時期は16倍もエプソンが綺麗な印刷ができるという圧倒的な性能差になってしまったのです。

実際、キャノンがエプソンに追いつくまでに6年かかり、エプソンを(少なくともスペック上は)追い越すまでに、7年つまり今年までの時間が必要でした。

価格が同じで性能は1/16。これで勝てる訳がありません。
市場規模が拡大していなかったらキャノンのプリンタ事業は危なかったかも知れません。
(細かく言えば、モノクロのスピード差やインクの耐水性、そして普通紙印刷の画質差などもあるにはありましたが、ここでは割愛します)

その間、昇華型や融解型そして熱転写型の復活など、エプソンの画質に対する挑戦が他メーカーからありましたが、すべて失敗しています。
昇華型だけはカラーレーザーの台頭が原因で、パソコン用としては大敗してしまいましたが、その画質の圧倒的良さから、デジカメ用プリンタとして生き残っています。

「良いものを作れば売れた時代」からの転換

技術的な話が長くなってしまいました。
ここまでの話は一言にまとめると

「良いものを作れば売れた時代」

箱です。誰にでも分かりやすい性能の差。これが勝敗を決定づけた最大の原因です。

この記事の後半からちょっと様子が変わります。
実は、キャノンが失敗したのは技術上の不利をカバーできなかっただけではなかったからです。

エプソンは1993年にカラー機を市場に投入した時、正式型番をMJシリーズのまま商品名をカラリオとエスパーに分割しました。

カラリオは低価格のインクジェット用、エスパーは高価格のビジネス市場用の名前です。エスパー・シリーズはレーザープリンタも一緒になったシリーズで、当時は珍しかった複数のパソコンで1台のプリンタを使えるネットワークが売り物でした。

電子系、機械系の業界での名前の付け方としては珍しいことです。
機械的な商品の名前は記号で表現されることが多いのが日本の市場だからです。
PC-9800やBMW 300i、TDK ADやSRなど、技術的な優位さを強調しようとすると、商品名は記号を採用することが多い。

記号の方が専門的な匂いがするからです。
長い間、技術優先型業界は記号を商品名につけることが伝統だったのです。

しかし、記号では初心者にとって何がなんだか分からない、覚えにくい名前になります。
30年前はそれでもよかったのです。

「なんだか難しい名前の方が『ありがたみ』を感じた」

からです。

しかし、トヨタにはすでに記号での商品名をつける慣習はありません。
オーディオ・テープでは、AEやSRの代わりにCDingやCDixといった意味のわかる名前っぽい商品名の商品が売れています。
PC-9800はなくなり、LavieやVAIOという名前がパソコンにつけられる時代になりました。

エプソンがカラリオという名前(正式名称ではないので、コミュニケーション・ネームなどと呼ばれます)を作ったのは、その時代の流れの最初の頃だったのです。
つまり、いち早く

「技術だけではなく、商品トータルの魅力」

の方向に業界を引っ張っていこうとしたのです。

もちろん、エプソンの努力も生活者がついてこなければ何の意味もありません。
しかし、同時に起用したテレビ広告でのアイドル、内田有紀の登場はプリンタユーザーがすでに技術やスペックだけで判断する人たちばかりでないことを証明したようなものです。

というのも、彼女の広告が世に流れ始めた頃から、店頭で「MJ-700が欲しい」という指定ではなく、

「内田有紀ちゃんのプリンタが欲しい」

という声が明確に増えたからです。

私のような古くからのマニアにとっては天地がひっくり返ったような珍事です。
プリンタのような数万円もする技術優先型の商品(のはず)が、100円のチョコレートのような買われ方をする。いや、「たかが、そんなことでプリンタを決めてしまう」生活者がいたことに対する驚きです。

しかし、現実は現実です。
目の前に、「由紀ちゃんのプリンタをくれ」と量販店の店員に言っているお客さんがたくさんいるのですから、コンサルタントとしてはそれを受け入れざるを得ません。

キャノンはというと、どんどん力が抜けていくようでした。
A4ノートプリンタではテレビ広告をしていたものが、寡黙になってしまいます。そして、出す新製品で力を入れるのが大きなデスクトップばかり。A4ノートサイズは自分で自分を押さえてしまうように、力が抜けていくだけ。

しかも作ったパンフレットは従来と同じ、機能訴求中心のもの。WonderBJと名前らしい名前を付けましたが、随分と遅れてからです。
市場が膨らむ原因となった新しい客は「有紀ちゃんのプリンタ」なのに、です。

広告下手なプリンタ業界

クルマもっともプリンタ業界は元々広告の上手な産業ではありません。
まじめな技術者集団ですから、どこか抜けていて憎めない。
例を出しましょう。

プリンタの広告でタレント起用第1号は、10年前エプソンが内田有紀を起用する寸前に、HPがテレビ画面に登場させたかとうれいこでした。

かとうれいこの広告でHPが言いたかったことは「きれいで、早い」。もっとも、広告では「毎秒120字印字(数字は忘れました)」という、知る人にしか分からない表現でしたが。

ここでは、それよりも面白いことがありました。
「きれい」は彼女が美人だと思えば、納得できることです。
問題は「早い」です。

HPはそれを表現するために、かとうれいこをニュースキャスター役に仕立てることにしました。ビルの屋上に着陸したヘリコプターからタイトスカートに包まれた、すらりと伸びた足がタタタと走り、控え室に飛んでいきます。

着替えを終わった彼女がスタジオらしき空間に原稿を持って颯爽と滑り込むシーンを撮影し、スーパーが「毎秒120字印字」と訴求ポイントを伝える内容です。

当時、プリンタ・ユーザーのほとんどは男性です。もちろん、HPはそれを意識して巨乳タレントの彼女を起用したのでしょう。
ところが、男性の一般的な認識は「女性は着替えるのが遅い」です。

いくらキャリアウーマンであったとしても、女性の着替えと比べて「早い」と言われても説得力はまったくありません。「毎秒120字は本当は遅いのではないか」と皮肉の一言でも言いたくなってしまう。そんな生活者の頭のイメージを抜きにして作った広告で商品が売れるわけがありません。

「早い」というキーワードで作った広告では、私が大好きな1本があります。
20年ほど前にアメリカで作られたニッサン・フェアレディのテレビ広告で、賞を取った作品です。

時は荒廃した未来都市。
真っ赤なフェアレディが高速道路を疾走しています。
それを監視していた悪の軍団が無線で知らせると、バイク部隊が待機。
その横をフェアレディは柵を壊してぶっ飛びます。

追いかけるバイク部隊。
ギアチェンジとアクセルを踏み込むクローズアップ。
一気に、バイク部隊を振り切るフェアレディ。
転倒するバイク。

次はF1フォーミュラ・タイプが待ち伏せ。
追いつかれて、併走する2台のクルマ。
再びアクセルを踏み込むフェアレディ。
遠く、F1レースカーは離されていく。

最後に登場したのが小型ジェット機。
地面すれすれの低空飛行で、フェアレディを追い詰めるジェット機。
再び、エンジン最高出力で振り切ることに成功。

ロングショットで悠々と追っ手から逃れたフェアレディの絵が写ります。
そこにナレシーション(確か「これぞスポーツ」のような意味でした)。
道路のど真ん中を上にあおっているカメラを飛び越すようにフェアレディがジャンプ。
ニッサンのロゴが画面中央に。
一呼吸して、上を飛んでいったのが、そのジェット。

…というオチです。

どうせ「早い」ということを言いたいなら、ここまで言えば気持ちがいいのにと思うのは私だけでしょうか。

ちなみに、エプソンの最初のモノクロモデルではマッハジェットという彼らの技術名に関連づけて、テレビ広告では小型ジェット機を登場させていました。ほとんど一瞬露出しただけでしたから、覚えている読者も少ないことでしょう。もちろん、広告としての質は遠くフェアレディに及びませんでした。

「おシンコもついてます」と言い出したエプソン

どんぶり私たちコンサルタントは「部外者」ですが、企業が「迷い無く、一手を打つ」のか「無駄な動き」や「うろうろとうろたえている」かが分かるようになります。企業を見ていても、あたかも人間を見ているように見えてしまう。

そんな立場からいえば、かつてあれだけ無駄な動きがなかったキャノンが、あっちこっちに振らついている様をまざまざと見せつけられたのです。

カラー機が主流になっているのに「モノクロが早い」と訴求してみたり(確かにキャノンの唯一に近い強みがモノクロ印字スピード早さでした)、「普通紙ではエプソンよりカラーがきれい(その通りでしたが、専用紙では圧倒的にエプソンの画質の方が上です)」と言ってみたり。

果ては、ヘッドを変えればスキャナに変身といった、上級者にも初心者にも中途半端なものを作ったり。とてもではありませんが、圧倒的な画質でアイドルのインパクト抜群のエプソンに、横穴を開けられるような内容ではありませんでした。

こうなると、うまくいくものでも失敗するのは、人間界でも企業でも同じです。冷静な判断ができなくなってしまうからです。

キャノン内部について、私は知りませんし、なかなかエプソンに並ぶ性能の製品が作れなかったことへのいらだちがあったのかどうかも知りません。
しかし、外部から見るとそれらの迷いやいらだちが伝わってくるのです。
その結果がシェアの大逆転です。

かくして、元気なエプソンと迷いに迷ったキャノン。蚊帳の外に置かれたHP。企業ユーザー以外からは見向きもされないNEC。
現在の業界の基本構図ができあがったのが1990年代の後半の5年間であったのです。

ここ最近、エプソンの動きに変化が生じてきました。
ピシリ、ピシリと囲碁や将棋のプロが自信と確信を持って、駒を打つような動きが鈍ってきたのです。

その変化は昨年から強調し始めた「ロール紙が使える」ことや、現在広告で訴求している「フチなし印刷」が登場してからです。

それまではプリンタのニーズの主流だった「画質の高さ」一辺倒だったエプソンが、いきなり規模の小さいニーズへの対応にシフトしてしまったのです。

あたかも牛丼店のトップ・チェーンが「早い、安い、うまい」と言っていたのが、いきなり「おシンコもついてます」と言い出したようなものです。

エプソンの内部事情は知りません。
しかし、明らかにエプソンは「次の目標を見失っている」ように見えます。

インクジェット・プリンタの画質が余りにも高くなりすぎたので、人間の目には判別がつきにくくなったため、技術者の良心が「いや、今でもエプソンの画質が上だぜ」と言い切ることにためらいを感じてきているのでしょうか。

エプソンの新モデルでは「カラー印刷が従来の2倍も早い」ことを、広告で伝えるのならまだ理解できます。

しかし、いくら年賀状がプリンタのニーズの大きなものであり、新モデルもそれに合わせて投入するのが常識であったとしても、ロール紙印刷がスピードに対するニーズよりも大きいとは考えにくい。

迷い始めたエプソンに対してキャノンはどうか。
テレビ広告で「新しいモデルは2400dpi」と中田選手に言わせています。
確かに、1440dpiのエプソンよりも性能は上がりました。念願の性能アップです。
しかし、時すでに遅し。

1440dpiも2400dpiも人間の目には違いが分からない。特に、1440dpiに7色インクの組み合わせでは、数字ほどの画質差はありません。

それならば、長年培ってきた「エプソンはきれい」というイメージの方が生活者に残ります。そうでなくても、商品の特徴が生活者の30%にすら伝わるのに、最低でも1年間はかかるのです。

第一、「有紀ちゃんのプリンタちょうだい」組には、もはや「2400dpi」は何のことかさっぱりわかりません。

一方で、詳しい人は2400dpiの意味も分かります。
しかし、2400dpi以外の情報はテレビで伝わらない。

結局、キャノンの動きはエプソンと同様、どうにもちぐはぐなのです。
ターゲットを上級者にするならテレビなど必要がない。少なくとも中田選手を使ってイメージ広告などする必要はない。

ターゲットを現在の大衆にするなら2400dpiの数字はまったく意味がない。
結局、どっちも取りたくて中途半端な動きです。

耳かきサイズでプリント5秒

迷い矢印キャノンのちぐはぐな動きは私にはこう見えてしまいます。
最近、エプソンは目標を見失ってうろうろしている。
この状態は本当のところ、キャノンにとってチャンスだが、エプソンに追いつく(つまり、真似して追い越す)ことに慣れてしまい、自分の頭で考えることを忘れてしまった。
従って、エプソンがうろうろすれば、キャノンも釣られて迷うだけ。

キャノンだけではありません。よくある話です。
トップ企業の裏の強みはこれなのです。
日本の企業は強いところを追いかけるクセがついてます。そちらの方が安全だからです。
強いところを追い越すことはできなくても、失敗することはありません。

リーダーとなるべきトップ企業が正しい判断をしているうちは、業界全体が健全な成長を遂げることができます。バブル崩壊までの日本経済はまさにこのメカニズムによって動いてきました。

しかし、バブル崩壊であろうが、技術の飽和であろうが、はたまた自社技術の優位性に対する自信であろうが、理由は問いません。トップ企業が迷い始めると他企業も一緒に迷ってくれる。

だから、トップ企業は安泰です。正常な判断をする競争企業がないからです。
その隙に、トップ企業は正常な判断に戻せばよいのです。つまり、格好の時間稼ぎができる。

従って、キャノンが「2400dpi」と言ってくれている間はエプソンは安泰です。

ではどうすべきか。
紙面が残り少ないので1つだけヒントをお話しします。
プリンタの究極の姿は「何もない」「一瞬」です。
以前、お話しした時計の記事「自己を否定する勇気のしるし【セイコーとシチズン」とまったく同じです。

現在では最小のA4サイズだろうが、まだまだ大きい。だって、生活者が欲しいのは出てきた印刷物だけなのですから、あの機械はないほうがよい。
例えば、耳掻きのサイズでA4やA3サイズの印刷物が出来上がれば、それで生活者はいいのです。

「機構的に最低A4サイズの幅は必要?」

無責任ですが、生活者は技術者ではないのでそんなことはお構いなしです。内部事情はどうでも良い。欲しいのはA4サイズのカラー印刷物。以上です。

また、例えば、印刷スピードにしたって、今でもイライラするくらいに遅い。
パソコンのモニタの画面表示が変わるくらいのスピードで印刷して欲しいのです。

「今の価格帯では技術的に難しい?」

それも生活者は知ったことではありません。オフィスのコピーマシンがあれだけ早くコピーするのだから、プリンタだってできないはずはありません。

「モノクロ・データとカラー・データは容量が圧倒的に違うから、あんなに早く印刷できない?」

「え?なぜ?」が初心者の反応です。
カラー・テレビが白黒テレビより動きがぎごちないなんて聞いたことがないからです。

生活者にとって、「パソコン業界『以外』」では、カラーだから遅いという理屈がまかり通っている商品はプリントごっこ以外にない。

いずれにしてもこのままでは、キャノンがかつての栄光を取り戻すのには相当な時間がかかりそうです。
これは、コンサルタントの目。

かつてのあのA4ノートプリンタ、BJ-10のような衝撃的な商品でのキャノンの復活劇を見てみたいものです。
これは1マニアとしての個人の目です。
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