■自己を否定する勇気のしるし【セイコーとシチズン】

時計

素晴らしき時計業界

Gショックがようやく落ち着き始めました。 一部のモデルを除き、入手も楽になり、騒がれることも少なくなりました。 以前のスウォッチを彷彿させるブームでした。
バブルの頃はロレックスが人気だったことは記憶に新しいブームです。 猫も杓子もロレックス。一時はコギャルまでロレックスをつけはじめて、さすがにヒヤっとしたものですが、単価が高いためクリエータやOLさん、風俗嬢のアイテムにとどまりました。

日本人には時計好きが多いのでしょうか。
私もお会いしたことがある雑誌界の重鎮、松山猛さん(私の年代だと元フォーククルセイダーズの松山さんと言ったほうが判りやすいかも知れません)は、時計の話をし始めると止まらなくなってしまうほど時計好きです。
また、私の友人も古い時計が大好きで、駅前の古いタイプの時計屋を見つけるとふらっと入っていきます。店主に「修理に出したのだけれど引き取ってこない」腕時計を譲ってもらうよう交渉するのです。そうして集めた時計は300個を下らないといいます。

一方で、腕時計は道端で売っている1,000円時計しか買わない層もいます。
3年前の40才までの私がそうでした。
1,000円時計や東南アジアで売っているニセモノ時計を値切って、5個くらい日本に持ち帰ります。壊れる度にそのストックから新しいものを付け替えます。

もちろん、こんな例はまれです。
確実に存在しますが両極端です。

中庸で言えば、まず、いくつかの腕時計をその場のケースに応じて使い分ける人たちがいます。その中には高いものもあれば数1,000円のものもあるといった具合です。
これは女性に多いタイプです。
男性に多いタイプは気に入った1つの腕時計を数年間使い続け、壊れたら買い換える人たちです。

高いのから安いのまで、機能中心のものからファッション中心のものまで、カジュアルからエレガントまで。
腕時計はバリエーションも豊かで、ブームもあり、生活者の関心も総じて高い。
しかも、世界市場でも日本の時計は高性能として評価が高い。

時計イラストその中でも主役はいわずと知れたセイコーとシチズンです。両社、売上げは立派なものです。
調べてみると、完成品ではGショックのカシオが約5,600万個を売り上げ、トップになってしまいましたが、ムーブメント(時計の駆動部のこと。他メーカーに部品として卸している)を含めた生産数となるとシチズンが3億1,080万個、セイコーが2億9,200万個、カシオが5,600万個と、今でもセイコーとシチズンは台数ベースで日本いや世界の1位、2位のメーカーです。

周囲に聞いてみても

「やっぱりセイコーはいいよね。品質が違う」
「1万円以上のもので買うならセイコーかシチズンでないと」
「セイコーとシチズンどっちがいいともいえないね。両方いい」

という声が上がります。企業イメージは抜群に良いままです。
一部こんな声があることは確かです。

「国産の時計は質は良いかも知れないけど、デザインは好きじゃない」
「宝飾品・アクセサリーとして考えると、セイコーやシチズンは買えない」

女性が多いですが、男性の中にも少なからず存在します。性差は顕著ではありません。
売れていれば問題ありません。
デザインの領域は元々「日本人が作った」というだけで、評価が下がるのが当たり前ですから、気に止めておけば良い程度です。

だから時計業界は素晴らしい産業です。
このメールマガジンでメスを入れるのは心が痛むくらいです。
「今度のテーマは時計だよ」と友人に言ったら、「え~?何でぇ?」とびっくりされてしまいました。ある人は「あっ、『褒めちぎり第2弾』でしょう」とまで言われてしまいました(笑)

こんな順調な産業でもマーケティングの側面から見ると砂上の楼閣がはっきりします。
今回はその中でも皆さんに身近な日本の専業メーカーに焦点を当てることにします。
セイコーとシチズンです。
生活者にとって、何の問題もないように見える企業も、裏を返せば危ない道をまっしぐらに突き進んでいる。そんな事例が今回のテーマです。

日本の時計業界が盛況になった訳

五輪メスをいきなり入れる前に、今の時計業界が繁栄を遂げた理由を簡単におさらいしましょう。
海外で「安かろう、悪かろう」の代表イメージだった日本製品。それが、次々と世界中の評価を高めた時期がありました。1960年代から1970年代のことです。

その中でも早くから評価が高かったのがセイコーです。
オリンピックに公式時計として採用されたことは「時を世界一正確に刻む企業」として、日本の誇りでした。
その後も単に「時を正確に刻む」だけでなく、自動巻きやクォーツなど「手間をかけずに正確に」「長期の間も正確に」と、「正確」のコンセプトを次々に推し進めた技術革新を世に送り出しました。

セイコーとシチズンは手軽に買える価格のクロック(腕時計に対する置き時計の総称)を市場に次々に投入。また、ムーブメントを外販することで、それを買って様々な時計を作る中小メーカーの活躍を促したのです。
時計は瞬く間のうちに私たちの生活の中に溶け込んでいきました。
今では、クーラーやステレオのリモコン、携帯電話やパソコンまで、私たちが接するあらゆる場所に「時を教えてくれるモノ」が待ち受けています。

さて、時計が行き渡り、時計以外のものも「時を告げる」役目を果たすことになると、これ以上時計は売れなくなります。飽和状態です。
そこで、セイコーが大ばくちに出ました。

「なぜ、時計も着替えないの」キャンペーンです。

若い読者の方々はご存じないと思いますが、20年前のこのキャンペーンまでは、腕時計は1つしか持っていない生活者が大半でした。

「時を知る道具」は1個で十分です。
ただでさえ安くない商品です。
時計を手に入れるのは入学祝いや就職祝いの時だけです。
壊れても買い換えるという発想はありません。修理をして使い続けます。
2個、3個持つなどという発想自体が生活者にはありませんでした。

それをセイコーが変えたのです。
「洋服を着替えるように時計も着替えよう」
「時を知る道具」なら1つしか必要ありませんが、「ファッション」「アクセサリー」なら話は別です。経済的な話を別にすれば何個あっても困ることはありません。
マーケティング用語でいえば「ポジショニングの変更」です。

これが大当たり。
ほぼ国民全員に行き渡った時計という商品を複数個持たせることによって、市場を拡大したのです。見事な戦略です。
セイコーのように市場シェアの40%以上を占める企業は、競合企業をいじめることで成長しようとしても意味がありません。それよりも、他の市場に喧嘩をふっかけ、そこから売上げを奪った方がよほど効果が高いのです。
時計はファッション小物、アクセサリー市場にまんまと食い込んだのです。

では私は何が不満なのか。
今のセイコーやシチズンは「つまんない企業」なのです。
もちろんこのメールマガジンでテーマにする限り、個人的な感情ではありません。
マーケティングの観点から見る「つまんない企業」とはどんなものなのか。これを説明することが今回の私の役割です。

「つまんない」企業

メリーゴーランド時計業界は、いつの間にか何の音沙汰もない企業になっていました。
私はセイコーに関するニュースを、ついぞここ10年間耳にしたことがありません。
今でこそ松たか子の広告が目立ちますが、それまでのセイコーの広告を思い出すことはありません。

その原因の一つはメーカーが広告費をケチっているせいもありますが、先ほど説明した「時を知る」道具が溢れ返っていることにもあります。時計メーカーとしてのセイコーやシチズンが相対的に私たちの意識の中にのぼらなくなり、核となるイメージがなくなってしまったからです。これはこれでブランド論で言えば大問題ですが、もっと重要なことに話を移しましょう。

もうひとつ、大きな原因と私が見るものがあります。
先ほど、セイコーやシチズンの企業イメージを聞いた人間たちの腕には、実はセイコーはほとんどはめられていませんでした。10人中たった1人です。
でも、そんな彼らはセイコーやシチズンの商品を褒め、セイコーやシチズンの企業イメージは抜群に良いのです。

彼らが嘘をついているのではありません。
実際に両社の時計は「持って」います。腕につけていないだけです。
両社の腕時計は「必ず持っていなければならない基本アイテム」です。
でも、それ以上でもそれ以下でもありません。

家庭内でのごみ箱と同じようなものです。
なくてはならない生活必需品ですが、それがあったからといって、生活が楽しくなるわけでもありませんし、豊かになるものでもありません。安心ではあるけれど、ワクワクするものではありません。

一方、私たちが生活していく上で、本当の意味で1分1秒を争わなければいけない機会はそう多くはありません。万が一の時のための保証として「正確であること」「安心であること」は大切ですが、普段は意識することは希です。
それよりも、もっと夢や誇りや楽しさが手に入った方がどれだけ嬉しいか。

その楽しさや嬉しさがなぜ時計からなくなってしまったのでしょうか。
このからくりは、皮肉にもセイコー唯一の成功販売促進策「なぜ時計も着替えないの」キャンペーンです。

セイコーやシチズンのみならず「時計」そのものがアクセサリーと真っ向からぶつかるにはハンデがありすぎる商品なのです。
また、セイコーやシチズンは「時を知る」機能では品質もトップですが、ファッション、アクセサリーとしての品質は劣っていたのです。
それなのに、企業イメージ、製造体制、商品開発体制について「アクセサリーとして扱われるための」準備がないまま頭から突っ込んで行った。

結局、せっかく「なぜ時計も着替えないの」キャンペーンで時計の幅を広げたのに、それが返ってセイコーやシチズンの首を締める皮肉なことになってしまったのです。
そのことを少し次の章から説明しましょう。

時計がアクセサリーに勝てない理由

アクセサリー「時計はアクセサリーに勝てない」とはどういうことか。
アクセサリーとして買われる、ということはアクセサリーに対する生活者の「常識」に巻き込まれることを意味します。

生活者のアクセサリー市場での代表的な「常識」は次のようなものです。

●アクセサリーだから、色々な種類があって当たり前
●アクセサリーだから、安いものか一生モノがあって当たり前
(中途半端はいらない)
●アクセサリーだから、値段が高いものは高そうに見えて当たり前

さて、これらを時計に当てはめるとどうなるか。
1つ1つ潰していきましょう。

最初の「色々な種類」の「常識」にメーカーが対応するには多品種少量生産が必要です。
アクセサリー業界と比べて部品点数が多い時計業界では、作る数が少なければ少ないほどコストが高くなってしまいます。これでは生活者がアクセサリーとして当たり前だと思うだけの種類を用意できません。

業界は違いますが、一時期、マツダのファミリアは400種類もバリエーションがありました。それだけのせいではないとはいえ、利益は1台当たりたった1万円しかなかったといいます。

たくさんの種類が出せないのはデザイン(デザイナー)の問題もあります。
時計のデザインは一部ブランド物を除いて、自社のデザイナーがすべてをとりしきっています。アクセサリーと異なり、「使い勝手」への配慮が大切だからです。
しかし、実はそこに大きな穴があります。

つまり、デザインを優先し過ぎると時計としての使い勝手が悪くなります。逆に、時計の使い勝手を重視し過ぎると、似たようなデザインや、アクセサリーとしては野暮ったいデザインになってしまう。
かといって、時計とアクセサリー両方の良さを追いかけようとすると、デザインのバリエーションが少なくなります。生活者の常識に対応できないのです。

実は、アクセサリーならアクセサリーに割り切って、時計としての使い勝手を徹底的に犠牲にする方法もあります。あるいは、デザインとしての理想を追いかけるために、知恵を絞る研究を進めることだって、不可能ではありません。
デザイン研究所のような別会社を作ったところで、それは、デザイナーを隔離するためのものであって、きちんとノウハウや生活者の感性を研究するための機能を持ち合わせていないのが現状です。

2極分化がセイコー・シチズンに不利な理由

アクセ「安いものか一生モノ」の2極分化については、時計メーカーが不利です。
というのは、時計よりもアクセサリー(この場合は特に宝飾品)の方が価格の幅が広いからです。
100万円の時計は成金趣味で嫌味だけど、100万円のダイヤの指輪ならちょっとした小金持ちなら持っていてもおかしくありません。アクセサリーで安いモノなら300円のブレスレットだってあります。

その中でもまず低価格商品については、大企業メーカーであるセイコー・シチズンは更に不利になります。
500円のプラスチックのアクセサリーをOLでも休日に身につけている現在、例えば「おしゃれ」という言い訳があれば、そこそこ安い時計でも恥ずかしくありません。実際にキャラクターつきのプラスチック時計が1,500円で、渋谷のセンター街で当たり前のように売られています。

でも、大企業のセイコー・シチズンでは1,500円の時計は作れませんし、作っても利益が取れないので作る意志はないでしょう。
しかし、大企業で例えば売上げ10億円がゴミでも、1,500円の時計を作っている中小企業にとっては1億円でも大きな売上げです。時計をアクセサリーにしたおかげで、セイコー・シチズンが対応できない穴ができてしまいました。

「一生モノ」はどうか。
時計は一生モノに関して宝飾品に太刀打ちできません。
宝飾品と時計とでは耐用年数からして違うからです。
宝飾品は「修理をしなくても一生使える」商品です。
一方の時計は、修理や分解掃除をしなければ使い続けることはできません。

しかも、修理だって、今や時計の修理職人は激減し、見つけるのも大変ですし修理代より新品を買ったほうが安いくらいです。
ちなみに、私は父親の形見の時計の分解掃除に8万円を支払いました。あと数万円出せば安いロレックスなら新品が手に入ります。

デザインが素晴らしい18金のブルガリの時計だからといって、止まった時計を腕にめていることほどマヌケな図はありません。所詮、「動いてナンボ」の価値をもった商品。それが時計なのですから。

セイコー・シチズンは時計メーカーの中でも不利な状況にあります。
セイコー・シチズンはどうひっくり返っても例えばロレックスを初めとしたスイスメーカーに「一生モノ」イメージでは勝てません。手作りの職人イメージが根強いそれらの時計メーカーとセイコーとでは、根本的に企業構造が異なるからです。

例えば、ロレックス等のメーカーはすべての自社商品を手作りで作ります。
ですから、「手作りイメージ」は本物です。
ところが、セイコーはどうあがいてもすべての商品を手作りにはできません。数が作れないので、売上げが下がるのが必至だからです。だから、手作りイメージを作ることに成功したとしても、実際は大量生産品と手作り品が混ざったままの企業ですから、「ロレックス1番、セイコー2番」以上には上がれないのです。

ブランドの問題に行き着く「高そうに見えて当たり前」

時計「高いものは高そうに見えて当たり前」は実はかなり複雑な問題です。
宝飾品は端から見て「高そう」というのが判りやすい商品です。
金や宝石などがふんだんに使われていれば、まず高そうに見えます。
また、大きいダイヤモンドは小さいダイヤモンドよりも高く見えます。
「多い・少ない」「大きい・小さい」が判断基準です。
一方、時計は大きければ高いというわけでもなければ、金色だから高い訳でもありません。また、「時を2倍正確に刻む」時計は、2倍の値段かというとそうでもありません。

では、時計は何で決まるのか。
時計は高い安いの「段階的な判断基準」というものがなく、その時その時の条件でしか「高そうかどうか」がわからないのです。
プラスチック素材の時計は安そうに見えますし、実際に値段が安いのが普通です。
ロレックスのマークのついている時計は(ニセモノでない限り)値段が高いと思って間違いありません。でも、普通の人には20万円のロレックスと80万円のロレックスは、ちょっと見ただけでは見分けがつきません。

実は、私が1,000円時計しか買わなくなったのも、これが理由です。
昔は人並みにメインの時計を1つだけ持って、壊れたら買い換えるというサイクルでした。
ある時、電話番号を50件も記憶できるというカシオのデータバングの初期モデルを見つけて以来、その便利さにデータバンク以外は腕につけることはありませんでした。

ところが、コンサルタント会社に転職後、同僚に注意されたのです。
「デジタル時計のブームはとっくに去っているのに、そんな流行遅れのモノを身につけているのは格好悪い。コンサルタントとしての信用に関わる問題なので、すぐさまアナログ時計に変えなさい」
データバンクは格好が良い悪いで選んでいる訳ではないので不満でしたが、コンサルタント歴が長い彼の忠告に従うことにしました。

しかし、当時の私は過去記事「時間管理」でもお話したように、買物に行く時間すらありません。
そこで、家に転がっていたメーカー時代に作った販売促進用の時計を見つけ、それをはめことにしたのです。原価300円、売値をつけたとしてもせいぜい2,000円、というしろものです。

デジタルをしていた頃には時々「森さんは(今更)デジタルなんですか」とクライアントに言われていたのが嘘のようになくなりました。
くだんの同僚も
「おっ、森さん、時計変えましたね」
と嬉しそうにしているありさまです。

私の中で何かがはじけました(笑)

「なぁんだ。デジタルじゃなければ、わかんないんじゃん」

周囲に聞いても最低でも1万5千円には見えるようです。
データバンクは初期モデルで2万円。
それ以降、ずっとしていたのが1,000円。
でも、評価は1,000円のほうが良い。
時間の正確さは変わらない。
結論は誰が見ても決まったようなものです。
デザインセンスさえ気にしなければ、1,000円時計の圧勝です。

これがクルマやスーツだとそうは行きません。
安いモノを買えば、たちどころにそれが周囲にばれてしまいます。
でも時計はばれない。
ここに時計の持つ「価値の根本的な問題」が潜んでいます。

そこで、出てくるのが「高そうだ」という保証の役割を持つ「ブランド」です。
ブルガリのマークがついた時計なら「少なくとも20万円はくだらない」と判断できます。
聞いたことがない名前ならせいぜい1万円。
こんな風に他人でも簡単に判断できてしまいます。

ブランドならアクセサリーの世界でもお馴染みです。
カルティエの三連リングなら1万円ということは絶対にありません。
マリクレールの指輪なら2~3万円、といった具合に価格が想像できます。

実際、1980年代の後半から90年代の前半の時計市場はブランドモノがオンパレードでした。いや、ブランドモノしか売れなかったといっても過言ではありません。事実、いくつかのブランドはセイコーやシチズンが作って販売していたものです。

「外から見て判りやすい」という欲求が進むと、価格だけではなくなります。それを持つことによって、自分がどういう人間なのかを外に対してアピールする道具になります。
例えば、ユーノス・ロードスターとトヨタ・カムリは同じような価格帯です。
しかし、トヨタ・カムリに乗った40才の男性は「家庭的」ですが、ロードスターに乗った40才のオヤジは「不良中年」です。

こういったブランド化の流れに対して、セイコーは何をしたか。
何もしていせん。
いたずらに、クレドール、ルキア等、セイコーの名前にもうひとつ名前をつけるようなことをしただけです。それらについて広告をきちんと打った訳でもありませんし、クレドールがどんな特徴を持った時計で、どんな人のための時計なのかを伝えようともしませんでした。

トヨタと比べてみてください。
トヨタは会社名の下に「カローラ」や「セルシオ」というもうひとつの名前をつけた商品を投入しています。そして、私たちは「カローラ」と「セルシオ」がまったく違う性格を持った商品であることを知っています。
でも、セイコー「クレドール」とヒット商品と言われるセイコー「ルキア」がどう違うかを答えられる人は稀でしょう。
かといって、セイコーという名前だけではいかにも中途半端です。
下はアルバの数1,000円から上は10万円までラインアップがあるからです。

努力の方向が見えてこない

EUROPAかくして、アクセサリー市場に打って出たセイコーは初戦こそ成功しましたが、じわじわと自分の首を締める結果となりました。
では、時計の分野で彼らは何らかの工夫をしているのか?

お寒い限りです。
例えば、正確な時間を「伝える」ことは今でも世界一です。
でも、生活者が主語になった時、正確な時間が「わかるか」という点になると、とたんにあやふやになってしまいます。
若い人は気にならないのでしょうが、40代を越えると視力が衰えます。
すると、今の時計の文字盤では「すぐに時を知ること」はできなくなってしまいます。文字が小さすぎるからです。
高齢化社会と言われ、かつての団塊の世代が50代になった今、彼らの購買力はばかになりません。低視力を意識したデザイン開発の時計はまだ出現していません。

もうひとつの例です。
例えば、今の時計メーカーには、つけ心地を追及した商品開発を積極的に推し進めている様子はありません。
夏はベルトがベタつき、冬は冷たいのが現在のベルトです。それを改善したベルトというのは聞いたことがありません。
スーツを着た時に袖に引っかかる、厚みや突起物があるのが現在の時計の主流です。
ただ薄いだけでなく、「服を着たときの状態を」究極まで考慮した時計というのを、私は勉強不足のせいか知りません(20年ほど前に薄さ競争は一時期ありましたが)

アメリカでおもしろい試みをしようとしている企業があります。
文字盤、針、ベルト、本体カバーなどの時計の部品それぞれについて、自分の好きなモノを組み合わせて世界に1つしかない自分だけの時計を作るサービスをインターネットを通じて提供しようと計画を進めているのです。
インターネットですから、自分が選んだデザインの仕上がりイメージをその場で見ることができます。あとは、注文ボタンを押すだけ。
シチズンでカスタムデザインの時計のテスト販売をしたところ(インターネットではありません)、人気は高かったものの、コストが高くついてしまうので拡大できないでいます。また、注文は専用CD-ROMがないとできません。

実は、この会社は私の大学時代のドイツ人の友人が経営しています。20年近く企業の販売促進用の時計だけを扱う会社として、今ではその分野でアメリカ最大の規模を誇る会社に育て上げました。
それぞれの候補から選んで自分だけのデザインを作るノウハウを一般用に拡大しようというものです。ですから、シチズンが類似のサービスを開始する遥か昔から持っているノウハウです。
本家本元の日本の時計メーカーよりも数段ワクワクするやり方です。
http://europawatch.com/

セイコーとシチズンは勝ち目のないアクセサリーとの喧嘩ばかりに気を取られた結果、本来の時計の進化を止めてしまいました。
究極の腕時計とは厚みゼロ、重さゼロ。そして身につける場所を問わない形態です。
時を「どんな時でも」「どんな場所でも」「すぐに」知ることができれば、腕時計でなくても良いからです。

SFチックにいえば、「今、何時だろう」という思念を感じとって、ホログラムのように視界の片隅に時刻を表示するものが、かばんの中やメガネのねじの中に組み込まれていさえすればいいのです。
いや、いきなりそういった商品や技術革新がなければいけない、というわけではありません。ただ、それを予感させる「進化」つまり「努力」が見えさえすればよいのです。

他産業にできて、時計業界にできない?

二眼レフ同じような性質を持った商品はいくらでも存在します。
例えば録音をする機械です。
音が保存できて再生できれば、あのステレオと呼ばれる銀色の箱はいりません。
だから、オープンリールからカセットテープ、そしてMDと録音する媒体の進化とともに、再生する機械も小型化しました。

カメラもそうです。
写真ができあがれば、丸いレンズのついた小さい箱は必要ないのです。
いや、写真という紙すら必要ありません。
二眼レフから一眼レフ、コンパクトカメラときて、APSフィルムを使った超小型使い捨てカメラ、系統がちょっと変わってデジタルカメラが進化の流れです。

テレビやオーディオは進化が遅かった分野ですが、奥行きが狭い液晶テレビの普及やミニコンポがようやく出始めました。

他の産業はスピードの差こそあれ、「進化」が見えます。
でも時計にはそれを感じません。
そこを私は問題視しているのです。
夢を感じない企業、それがセイコーとシチズンです。

実は、ここにもヒントがあります。
一部、カメラ等の収納できる(隠しておける)商品を除くと、それらの産業に共通しているものがあります。
デザインが一見重視される、ということです。
ステレオやテレビなどはインテリアとしてのデザインが要求されます。

それはなぜか。
使っていないときには無用の長物だからです。
場所をとるだけの無駄な存在。
だから、それらのデザインへの要求は、使わないときに如何に目ざわりにならないかという観点から出てくるものなのです。

時計もまったく同じ。
時を知るとき以外は「無用の長物」です。
あくまでもそのカモフラージュとしてのデザイン性、ファッション性への生活者の要求を勘違いして、勝ち目のないアクセサリー業界への殴り込みをかけたのが時計業界です。

クルマはその運命をたどるかと思わせました。
クルマも、ヒトやモノをA地点からB地点に運ぶ時以外は「無用の長物」だからです。しかし、その基本機能に加えて、

●「自己の表現」(どんなクルマをもっているかで、そのヒトの社会的な面や性格がわかる)
●「行動範囲や行動時間の拡大による、人生の選択肢の拡大」(今まで気軽に行けなかったところや、電車などでは移動できない時間に行動することができる)
●「自分だけの空間の確保」(車内は自分が独り占めできる唯一の空間)

等、本質的なところで商品としての価値を高めることに成功したのです。
時計とどれだけ違うことか。

時計を否定できる勇気があるかどうかが分かれ道

もう一度言います。
時計は本来「邪魔」な存在です。
腕時計は現在の商品のままでいる限り将来はありません。進化がなければ商品そのものの存在すら危うくなります。
今まで築いてきた名声や地位をただ食いつぶしているだけの業界に明日はありません。いや、私たち生活者からそっぽをむかれてしまうだけです。

別な言い方をすれば時計メーカーが自社商品を否定する勇気があるかどうか。
これが、将来を分ける最大のポイントです。
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