絶対に採用できない条件
シストラットの面接質問を以前の記事で紹介した。
シストラットは原則として前職の職種や学歴を問わない。
が、どうしても採用する気が起きない人たちが多い職種がある。
営業部門である。特に、スーパーや問屋などを担当するフィールド・セールスだ。
彼らの独特の言葉遣いがコンサルタントの世界に合わないのである。
まず、耳につくのが「~の方」という言葉。
と言えば良いところを
と、意味もなく「~の方」をつける。
「方」をつけた方が一見柔らかく聞こえるため、どうも丁寧語だと勘違いしている節がある。しかし、単に聞きにくいだけだ。「方」がなくても十分丁寧である。
それ以上に象徴的なのが「~となっております」というフレーズである。
「なっている」という言葉は状態を表すことばであり、そこには話し手の「意志」がない。つまり、大前提としてある状態があり、そこから物を考えていくということを指す言葉だ。
簡単に行ってしまえば、「こうなっているんだから、しょうがない」状態を指す。
「こうした」のは誰だ?と突っ込みを入れたくなるのは、私だけではあるまい。
「当駅のホームは禁煙となっております」という言葉を聞くとムカムカするのは、私が1日120本もたばこを吸うヘビースモーカーだからというだけではない。
「このホームを禁煙にしたのは、あんただろう?何故、堂々と言わない?」
要するに、責任回避の姿勢が私にとって、たまらなくいやなのだ。
「こちらのハンバーガーは380円となっております」って、法律が価格を決めたのか?
「このホームは禁煙とさせていただきます」や「このホームは禁煙です」の方がよほど潔い。その方針に賛同しないのなら、そこの鉄道を利用しなければ良いのだから。
あるいは、その店のハンバーガーを買わなければ良いのだ。
【注】この原稿を書いている最中に、東京山手線の車内放送が変わったのに気がついた。それまでは、「携帯電話、PHSのご使用はお控えください」という表現だったのが、「PHS、携帯電話は使用しないで下さい。お客様の中には健康に影響を与える場合があります」と明言している。ここには、「なっております」式のニュアンスは微塵もない。潔さが気持ちいい。
生活者の極めて個人的な現状
なぜ、このような話をするのか?
生活者の意識の流れに翻弄された企業姿勢の問題がクローズアップされるからだ。
まず、ベースとなる生活者の意識の流れについて話そう。
1960~1970年代の学生運動後の例を出すまでもなく、現在の若者は個人としての自分の力に見切りをつけている。自分が幾ら頑張ったって、その影響力は微々たるものだということを知っている。
だから、体制には絶対に逆らわない。
いや、むしろ、その中で賢く生きていこうとするバランス感覚すら持っている。
コギャルが女子高生というブランドを最大限に生かそうとするのも、そして、そのシンボルが制服であるのも、体制を否定せずに生きていくという証しである。
体制肯定の流れは個人対個人の関係にも影響を与えている。
プリクラやポケベル、はたまたパソコン通信やインターネット。それらによるコミュニケーションのキーワードは「自分を傷つけない付き合い」である。
前者は「とりあえず他人と繋がっている」という実感を持たせてくれる文化だし、後者はそれに加えて、「いやなら、そのままコンタクトを断ってしまえば良い」し「世界が広いので、また新たな人を見つければ良い」というメリットがある。
人との付き合いという「体制」は否定しない。でも、その中で最大限賢く生きる。その、欲求は「自分が傷つかない」という原点からすべて発生しているのだ。
「重い」というキーワード
今の若い人達のキーワードはいくつもあるが、「重い」「他人に迷惑をかけるんじゃないから、いいじゃないか」が代表的なものである。
後者については機会があれば別途話をしたいが、ここで気をつけたいのが「他人への迷惑」というものが実に一元的な尺度であるという点だ。
社会問題になりつつある電車内の携帯電話は、彼らにとって「他人に迷惑をかけていない」行為だし、コンビニで男子学生バイトの恋人が来店して、痴話げんかを始めるのも「迷惑をかけていない」のだから、その尺度のずれさ加減は社会のそれとはまったく一致しない。
【注】実は、このことばの使い方も彼らの狡猾さを表しているといえよう。社会に対して受容されやすい言葉遣いをし、表面上は納得させる。が、その実、内容は全く異なるものなのだから。
さて、本稿でのテーマに合致するキーワードは前者の「重い(他人との関係)」である。
主に恋愛関係で使用される言葉だが、相手の自分への感情がある一定のレベルを越えた状態を指し、極端に嫌われる。それが例え恋人同士であっても、毎日セックスをしていようが、自分の世界に必要以上に入り込もうとすると、「重いのは嫌」と平気で関係を断ち切る。
昔なら「重い」のは、結婚する気がないのに結婚を迫られたりするような、人生のタイミングなどのバランスが双方で合わないときだった。しかも、関係を断ち切るのにそれなりの時間をかけて悩む。
それが、一瞬である。
「重い」と思ったら、次の日には恋人解消宣言をしている。
ストーカーが社会現象として言われて久しい。中には本当に危ないヤツもいるのだが、今までなら「思い焦がれて行動する」美談もストーカーになってしまうのは、ひとえに「重い」基準のなせるわざである。
その一方で、自分に対する関心があるのは心地好い。「私を知ろうとしてくれるのは嬉しい」のだ。だから、男の子に電話番号を聞かれるのは「嬉しいこと」で、そのために気軽に教えられる携帯電話やPHSに加入することになる。
たまに、「ナンパした子に電話番号を教えてもらった」と喜んでいるサラリーマンがいるが、美しき誤解である。彼は「嫌われなかった」のであって「好かれた」わけではない。
まぁ、好かれなくとも、嫌われなければセックスくらいはできるから、喜んでもよいのだろうが、彼女扱いをしたが最後、「何、勘違いしてるの?」とシャットアウトされるだけである。その程度で、彼女として扱われるのは「重い」のだ。
ちなみに、細かく言えば、女性の場合、ある一定の年齢に達すると、一気に反動が現れる。様々な事柄を「重い」として避けてきたため、ふと、「自分って何だろう」と考えると、経験不足のため、その答えが出てこない。
「自分探し」現象である。
一方のこの流れをうまく掴んで飛躍的に伸びた企業があるが、それについては、次の記事に譲ることにしよう。
同じ価値観を持ったグループとしか付き合えない人々
さて、この「重い」のが嫌われるのは、自分が傷つきたくないという欲求が根底にあることは先ほど話をした。
このことは、一方で、自分に関わることによって責任が発生するのが嫌だという側面を持つ。
例えば、彼氏、彼女の関係になるとむやみに他の異性と仲良くできない。デートの約束をしたら守らなければならない。
今の若者は存外まじめである。すっぽかすことは基本的にできない。だったら、初めから束縛が必要な関係を作らなければ良い。
一時期言われた「友だち以上、恋人未満」の関係は、セックスはあっても、恋人のように束縛関係がないという大変便利な関係のことである。
昔の社会なら、こういう「自分勝手」な行動は許されなかった。それは、大学のクラブや会社での人間関係などが抑制していたのである。そして、その中に所属しなければ誰も相手をしてくれない、つまり友人がまったくいなくなるというペナルティが存在していた。
しかし、現代は同じ価値観を持った人間だけが集まれば良い。
そこでは、誰にも束縛されず、でも適度に自分に関心を持ってくれる友人が見つかる。
「じゃらん」等の個人情報誌やNiftyのフォーラムやパティオ(趣味グループ)、インターネットのホームページやメーリングリスト、掲示板はこの傾向を加速した。
話が長くなった。
まとめよう。
現在の若者が他人との関わりあいを避けようとしており、それを容認する社会がある。
そして、自分が傷つきたくない、責任を負いたくない、という心理がそれを支えている。
さて、ここまでなら、単なる生活者心理の解説である。
問題は、これらの個人的な心理が公的な企業活動に影響を与えている、ということである。
もうおわかりだろう。
責任を取りたくない、という心理が「なっております」というフレーズにそのまま反映しているのだ。
企業での個人は生活での個人ではない。
確かに、個人的には
「ハンバーガーを380円にしたのも『私』ではない(だから、ちゃんと払ってくれないと困る)」
という言葉が「~になっております」に凝縮されている。
公私混同が社会的なタブーとされているのではなかったのだろうか?
そのツケがどう企業に反映するのか。
話を次のテーマに移そう。
意志を持っているはずの企業
モノを売るのではなく、企業の志を売る。
一時期、流行した姿勢である。
そして、最近、復活した思想でもある。
個人的には、あまり好きな姿勢ではない。
というのは、志が志のまま終わってしまうケースが多いからである。
いや、志のままで良いのだという風潮すらある。
それならば、黙ったまま良い商品を作り続ける方が大事だと私は考えている。
そして、それらの商品は黙っていても、その企業の志を表現しているのが最高の方法である。
戦略的な言い方をすれば、志、云々と言うコミュニケーション予算や企画部、広告部のスタッフを動かす工数があれば、その分商品を作ることに資源を配分したほうが経営効率が良い。
百歩、譲ろう。
経費効率が多少悪くても、その志を貫けるなら、まだ良い。
しかし、どうだろう。
「企業の意志」や「企業のポリシー」を掲げている企業に限って、「~となっております」式の現場対応が多いのだ。
意志の表明ではない。責任回避をしている。
企業の公報がいくらカッコ良くても、現場でこんな対応が堂々とまかり通っているのでは、とても「志に共鳴する、力のある生活者リーダー」等の支持は得られない。
いや、返って彼らの反感を買うだけだ。
単に、仕事ができない上司より、口では立派なことを言っていながら、何もできない上司の方が許せないのと同じである。
一時期、CS活動が流行した。
Customer Satisfactinの略だが、元もとCustomerつまり顧客の満足を考えないマーケティングなどありえないのに、わざわざ顧客満足という概念を掲げるのは滑稽なものだった。
ここでも百歩、譲ろう。
CS活動で、現場の質が向上したのなら、許せる。
しかし、CS活動に熱心だった企業ほど、現在の責任回避キーワード「~なっております」が多用されている。
要するに、本当の意味での志を持たない企業だからこそ、その時の流行にフラフラするし、志を持つような企業でないからこそ、現場が責任回避をしてしまうのだと考えるとつじつまが合う。
反論2点
こういう話をすると、当然のことながら反論が寄せられる。
代表的な2つを紹介しよう。
まず、第一の反論は、生活者自身が「なっております」症候群に陥っているので、「責任回避」に気がつかない、あるいは、同感するという議論である。
本当にそうだろうか?
先ほど述べたように、「自分が傷つきたくない」欲求は普遍的なものである。が、そのために、自分の行動を制御するのはある一定の年齢以下なのだ。そこから卒業する人々がいる。
彼ら、卒業生にとって、「なっております」はやはり不快な言葉として写っても不思議はない。
そして、重要なのはそれら卒業生は社会でのイノベーターであるという点だ。世の中の消費を動かすだけの影響力を持つ人々なのだ。
気をつけたほうがよいと思うのだが。
もうひとつの反論は、一般の生活者はそこまで言葉に対して敏感ではないという点である。「なっております」を気にするのは、言葉に対して敏感であるのが職業病のコンサルタントやコピーライターくらいなものという指摘である。
一般の生活者をなめると、しっぺ返しがきついのは、メーカー時代に何回も経験している。「このくらいは、わからないだろう」と、商品を設計する。確かに、普通に調査をしている分には微妙にデータの差があらわれるが、大したことはない。
そして、発売直後も大きな影響がないように見える。
が、半年、1年と経つうちにジワジワとマイナスの評価が現れるのだ。ボディブローのように手抜きが効いてくる。
例えば、ビールやたばこで目隠しテストをすると、いつも飲んでいるあるいは吸っているブランドですら、言い当てることはできない。正当率などは20%あれば良いほうである。それを持ってして「一般の生活者はプロの味がわからない」と平気で発言する開発担当者も多い。
しかし、長期に渡るテストを行うと、確実にそれらの味を見分けているのがわかる。
人間の感覚というのは決してあなどってはいけない。
「なっております」の言葉づかいも、表層意識では分からない場合でも、正常な感覚を持っていれば確実にイノベーターに伝わる。
よしんば、「なっております」だけで伝わらなくても、「責任回避の心理」が現場の基本にある限り、いつか、「普通の人にもわかるような」形で、その企業の本質が露呈してしまうだろうことは想像にかたくない。
内側から腐乱していく企業
極めて個人的な価値観が公的な企業というものを内側から蝕んでいく。
一方の「公的」な企業は賢明に「公的の理想」を声高に宣言する。
そのギャップを賢い生活者は見抜いて、せせら笑う。
「ジェネレーション・ギャップ」と一言で片づけるのは簡単だ。
「たかが、『なっております』くらいの一言ではないか」と一笑に伏すのはもっと簡単だ。
しかし、それが企業の業績に影響するとなると、話は一変する。
そう。
そういう「賢い」「鋭い」生活者こそが、市場に影響を与えるイノベーターなのだから。そして、彼らの失笑を買った企業は、彼らの信奉者であるフォロワー、つまり、一般大衆の失笑を将来的に買うことになるのだから。