江戸時代にタイムスリップしながら、現代の旅館について考えてみました。
あー、旅に出たい(笑)
旅好きな日本人
日本人は旅好きと言われます。
実際、国内外を含めて旅行業界は大きな市場を持っています。
また、この業界はユーザーが老弱男女を問わないほど幅広い珍しい業界でもあります。
若い人は国内ケチケチ旅行あるいは海外旅行。
リタイア夫婦も国内リッチ旅行あるいは海外旅行。
他の業界では消費行動が不活発になる、こどものいる家庭も旅行には出かけることが多い。
30代は元々乳幼児を抱えるので行動が自由にならず、外食、ショッピングなどの消費機会が少ない層です。また、外見を気にする余裕がないので、化粧品やファッションなどの女性の出費比率が多いはずの商品の購入も少なくなります。
加えて、収入の割に教育費がかさむので、経済的な余裕がないのも大きな理由です。
そんな30代でも旅行に関する消費はそこそこあります。特に小学生以上の子供を持つ親にとって、旅行は社会勉強や思い出に深く関わるので、教育費に近い位置づけになり、旅行に関する出費は削れないのです。
もちろん、不倫旅行なんていうのもあります。
ある大手旅行代理店がバブル時代に300万円の海外旅行プランを発売したところ、その約80%が不倫カップル(と思わざるを得ない客)だったというエピソードもあるくらいです。
それだけではありません。
宿泊つきの小旅行も実は大きな市場を占めています。
例えば、正月やクリスマスなどのイベント期間では、都内ホテルの売り上げの半分以上が都内在住者で占められているのです。
これは地方のホテルや旅館でも事情は似たようなものです。
1世帯当たり、1年に146,216円(平成12年)も使っている旅行という存在。
旅行には夢があります。開放感があります。好奇心があります。
海外に行くと賢くなった気がします。自分の視野が広がり、一段偉くなった気がします。
そして、旅行をすると同伴者との仲がもっともっと深くなった気がします。
旅行の魅力とはそんな広範囲にわたったものなのでしょう。
これは国内、海外は無関係です。
一時期、人気が下降した国内旅行も、安くて楽しいバス旅行企画パックで人気が復活しました。
「新潟グルメ旅行パック、東京から19,800円」といったチラシが誇らしげに旅行代理店の店頭で踊っています。
そして、旅行に付き物なのが宿泊する場所、ホテルや旅館です。
これなくして、旅行は成立しないといっても過言ではありません。
特に海外旅行ではホテルが選択の中心になることもあります。
ハイアット・ワイキキには絶対に泊まりたい。
カクテル、シンガポール・スリングの発祥の地であるシンガポール、ラッフルズ・ホテルに泊まって、バーで一晩を過ごすのが夢。
一方で、宿泊先でトラブルやイヤな目に会うと旅行の魅力も半減しますし、逆に親切にしてもらうと旅行の思い出も倍増するものです。
そんな、「思い出の立役者」ではありますが、構造的に不況になっている業種があります。
日本古来の旅館です。
全国で63,388件もある旅館ですが(ホテルは8,363件。平成13年)、そのうち黒字なのはたったの5%と言われています。
実は私の祖父もある地方都市で旅館を経営していました。今は人手にわたっています。
旅館は私にとっては、身近な存在でもあるのです。
一体、なぜこうなってしまったのでしょうか。
そして、復活する可能性はあるのでしょうか。同じ日本古来の伝統商品のろうそくのように、火が消えてしまうのでしょうか。
今回は、そんな旅館にスポットを当ててみました。
『古い、汚い、不潔、ぞんざい、不自由』
さてさて、前置きが長くなってしまいました。
話題を進めましょう。
旅館が瀕死の状態だという話です。
『古い、汚い、不潔、ぞんざい、不自由』。この5つですよ、5つ。場合によっては『うるさい』が入る。
まとめると『時代遅れ』。その一言じゃないですか」
あはは、いつも元気でストレートな小夜子ちゃんです。
いきなり本質を突いた原因を言われては、私も立つ瀬がありません。
「古い」は仕方がありません。旅館は歴史が長いですから、どうしても老朽化する。
さらに、経営が悪化する旅館が多いから新規投資ができず、新築もままならない。
「汚い」は「古い」とは違います。清掃さえきちんとすれば、古くても清潔感を保つことができます。これは従業員教育が不可欠ですが、日本旅館ではなかなか徹底できません。
ある旅館の経営者の弁です。
それが昔から旅館だったし、旅館もそれを当てにしてきた歴史があります。
また、旅館は田舎にあることが多いので、進んで就職しようという人が少ない。人数確保が難しいのが悩みなんです」
「不潔」は「汚い」と似ていますが、あえて違う言葉を使いました。というのは、原因が違うからです。
「汚い」は清掃の問題です。
しかし「不潔」は旅館が持つ本質的な問題のことを指します。
つまり「共有」です。
日本の良き伝統のひとつに「共有」があります。
大浴場が存在するのは「多人数で共有できる」からです。個人使用ではあそこまで大きな風呂は発達しません。
しかし、それがアダになります。
例えば旅館のスリッパ。
最初は消毒しているのかも知れませんが、大浴場に入ると誰がどのスリッパを履いているのかがまったく分かりません。自分が風呂から出てきた時には、水虫のおじさんのスリッパを間違えてはいてしまうかも知れないのです。
「ぞんざい」は従業員の対応です。
洋式のホテルは客との接触時間が少ない分、接客の善し悪しが分かり難いという利点があります。しかし、旅館だとストレートに出てきてしまう。
その代表が仲居さん達の対応です。
「不自由」は先の「共有」の裏返しでもあります。
「みんなで使う」ためには「ルール」が必要です。
従来の日本人は「仕方がない」「それが当たり前」だったものが、現代人には不自由に写る。
例えば、食事内容や時間。
レストランが前提の洋式ホテルでは何を食べるか、いつ食べるかは宿泊客の自由です。もちろん、メニューの幅の広さや営業時間がありますから、無限大の自由ではありません。
しかし、旅館ほど狭くはありません。
食事内容は基本的にあてがいぶちだし、時間もせいぜい1時間程度しか選択の余地がない。
終了時間になると仲居さんが、早く終わるようにせかすことなど日常茶飯事です。
旅行の3大楽しみのひとつである食事を楽しむのに制約があるというのは、かなりのストレスが溜まります。
最後の『うるさい』は他の宿泊客の宴会のことを指しています。
宴会が入るとその近くの部屋はうるさい酔客に悩まされます。宴会場が客室と離れている場合でも、酔客が廊下や風呂やロビーなどを大きな声でわめきながら練り歩く。
「個人客は手間がかかる割に要求がうるさいんです」
今度は逆にいいところを聞いてみましょう。
と悩んだあげく、隣の美代子ちゃんが発言しました。
それから、温泉があることくらいかしら。
あ、後、浴衣のまま歩き回れることかな」
でも、例えばディズニーランドの舞浜みたいに都市ホテルが温泉街に進出したら、私はそっちに行くなぁ」
温泉は好きですけど、旅館なんて『それしか娯楽がないから仕方がなく』利用しているだけです」
「あるわけないじゃないですか (笑)。
海外旅行ならありますよ。ハワイには何回か行きましたけど、最後の数回は同じホテルです。
でも、日本の旅館って『また泊まりたい』と思わせてくれない」
というか、前に泊まった同じ旅館の質が良くなかったので、同じところに宿を取る気になんかなれないです」
こういうインタビューの場合、流れが悪い方向に行ってしまいがちです。頭を冷やしてもらわないといけません。
フロントの人が親切だったり、仲居さんが観光スポットに詳しくて『あそこは若い人が良く行く』とか『あそこの植物園で売っているのは他の場所から持ってきただけだから、気をつけなさい』とか、アドバイスしてくれた」
でも、一人4万円の超高級旅館。そこしか泊まれるところがなかっただけです。
4万円の価値があったかというと疑問です。旅館の人たちは慇懃無礼だったし。
丁寧だったけど、ニコリとした顔は結局見なかった。
ゆっくり気分を楽しみに行ったのに、肩がこっちゃった (笑)」
うーん。どうにもこうにも旅館は分が悪そうです。
赤字だと嘆く前に、旅館経営者たちはそのことに気がつかないのでしょうか。
旅館をテーマにするに当たって、何人かの経営者や旅行関係者にヒアリングをしてみました。
まず、ここでびっくりしたことがあります。
いつも新しい土地に行きたがる。
だから、常連客なんて一部の旅館・ホテル以外は期待しないんですよ」
例えば、それって常連客がどれくらいの割合を占めているかとか、宿泊客へアンケート調査をした結果とか、そういうことですか?」
「いいえ、私たちの経験です。そんな状態だから、常連客の比率なんて計算したこともないです」
いやはや。海水浴場の海の家や田舎の街道の「めし」としか書いていない看板のお店と同じじゃないですか。一過性、一見客ばかりだと思えばサービスも最低しかしないし、そもそもサービスの質をあげようなんて発想がない。
今までは、クルマという便利な移動手段が普及していなかった。
だから、サービスが良かろうが悪かろうが、その観光地に行こうとすると、その周辺の旅館に泊まるしか選択肢がなかった訳です。
しかし、今はいくらでもサービスの良い宿泊施設を広範囲から探すことが出来ます。
それに気がつかず、「また来よう」と満足してもらうレベルではなく、「苦情が来ない程度」の水準でお茶を濁し努力を怠っていては、常連客もいつくはずはありません。
団体の方が効率がいい。幹事さんもいるから、直接の苦情も少ない。
でも、個人客は手間がかかる割に要求がうるさいんです。
無茶なクレームも団体より個人客の方が圧倒的に多い。
うちは山の仲の旅館なのに、新鮮な海の魚が欲しいと2時間も文句を言われたり、自分が食べた旬のタケノコはこんな味じゃなかった。八百屋から買ってきたはずだとか。
あのタケノコは正真正銘、裏の山でその日の朝、取ってきたんですよ。
確かに業界では団体客ではなくて個人客の時代だなんて言われていますけど、そんなことやっていたら人件費で潰れてしまいますよ。
うちだけじゃなくて、どこもそうじゃないですか。
ホテルと違って、お客さん一人当たりの手間が旅館は高いんです。
森さん、もう一度団体客を呼び戻すようなマーケティングって、できないですかね」
自分の事情だけで客がついてくる時代はとっくに昔のことなのに、これらの経営者たちは何か大きな勘違いをしているようです。
一体、何がどうなってしまったのでしょうか。
日本旅館は日本の伝統にのっとった形式であるだけに、歴史にその原因と解決のヒントが転がっているかも知れません。タイムマシンで過去にさかのぼってみましょう。
江戸時代の旅館 - 旅籠
旅館が発達したのは江戸時代、しかも後期です。
それまでは、旅行そのものが一般的ではありませんでした。
第一、移動手段は徒歩だけ。
しかも、貨幣経済が不安定だったので、ある地方で使えたお金が他の地方で使える保証はまったくありません。
それが江戸時代に変化が生じます。
まずは、地方大名の経済を弱体させるために参勤交代という制度ができあがりました。
大きな行列となると数百人が移動します。そのための宿泊施設が必要です。
大名たちが泊まる旅館は本陣と呼ばれ、他の宿泊施設とはワンランクもツーランクも上でした。
次に、旅行する必要があるのが商人たちです。
富山の薬売りのように、商品をかついで売り歩くための遠征だけでなく、山間部の住人に魚介類を販売するための商材の買い付けや運搬のために、人が移動します。貨幣経済が安定した江戸時代ならではの商業発達です。
最後に一般庶民の旅行です。
当初はお伊勢参りなどの宗教的な旅行でしたが、遊山や湯治などの近場での小旅行も後期に発達するようになります。
木賃宿、平旅籠(はたご)、飯盛(めしもり)旅籠などのバリエーションが最も出現しました。
まず、木賃宿とは自炊設備しかない宿のことです。料理は提供しません。
客は持参した干飯(ほしいい)と呼ばれる、ご飯を乾燥させたものをお湯で戻してお粥にしますが、そのための薪(木)の代金(賃)が必要なところからのネーミングです。
こういったインスタント食品は一般的で、戦国時代も味噌汁に浸した縄を乾燥させて携帯し、食事の時にはそれをお湯に浸すと味噌汁ができあがる工夫などもしていたほどです。
江戸時代前半は木賃宿が主流でしたが、素泊まりなので付加価値がなく、火元管理が客なので不始末から火災が頻繁で、被害が多かったことから、徐々に姿を消していきます。
現代のような食事付きの宿を旅籠(はたご)と呼び、江戸時代の主流でした。交通量の多い、街道沿いに発達した商人も庶民も宿泊する現代の旅館のルーツです。
時にはこれを平旅籠(ひらはたご)と呼び、飯盛旅籠(めしもりはたご)と区別します。
飯盛旅籠は飯盛り女と呼ばれる遊女を抱えた旅籠です。
本来は飯を盛る女、つまり仲居さんのような存在だったものが、夜のサービスをするようになったものです。それ専門に女性を雇うのが主流でしたが、彼女たちは客がいない昼間などは普通の仕事をしていました。
これが大当たり。あまりにも人気が出たので、当時の幕府は全面禁止のおふれを出しました。
しかし、それでもきちんと守るものはおらず、とうとう現状追認という形で、1旅籠当たり2人までの飯盛り女を認めるようになりました。当然、それを守る飯盛旅籠は皆無でしたが (笑)
実は、江戸時代後半における飯盛旅館の存在は無視できないどころか、数の面でも圧倒的な主流だったのです。例えば、東海道の旅籠の総数は2,998軒。そのうちの多いところでは100軒もあったといいますから、宮248軒、桑名120軒が旅籠軒数ベスト2なので、宮でもほぼ半数が飯盛旅籠だったということになります。
女性のサービスという付加価値があり、人気も高い。当然、経営的にも潤います。売り上げと利益は平旅籠の倍以上だったといいます。
道徳的な配慮をせずに、かつ、わかりやすくいえば、江戸時代後期の日本旅館とは「女性付きサービス」のある宿泊施設なのです。
旅籠サービス内容
一般的な旅籠の概要をもう少し覗いてみましょう。いくら主流だからといって、飯盛旅籠の内容は現代の日本旅館の大した参考にはなりません。
まず、旅籠の規模です。
実は、当時の旅籠は私たちが想像するよりも遙かに小規模なものです。
もっとも多いのが1旅籠当たり5部屋。総面積70畳です。1部屋当たり12畳の広さです。
例外的に大阪、京都などでは200部屋といった大規模な旅籠もあったのですが、一般的には10部屋が上限といった状態です。
現代ではそういった小規模旅館は高級イメージがありますが、とんでもありません。
江戸後期での宿泊料金が150文~200文。貨幣換算すると4,500円~6,000円。決して高いものではありません。
規模が小さい、単価が安い。その行く先は年商360万円程度の経営規模です。
当然、下働きの従業員を雇う余裕はありません。せいぜい、女性従業員1~2名でした。中には家族だけで切り盛りしている例も珍しくはありません。そんな状態ですから、料理人がいる旅籠は皆無です。
当時の旅籠は日本旅館とはいいながら、今で言う民宿がもっとも近い形態でした。
もちろん、職住接近。いや、職住同一です。
一般的には、1階が玄関と風呂そして経営者達が住むエリア、2階が客室という構成が最も多かった形です。
さて、客としての旅籠はどうだったのか。
宿泊客として気になるのがまず部屋です。
シラミに悩まされて眠れなかったという記述が頻繁に残されているだけあって、一般的には衛生管理は良くありませんでした。いや、これは旅籠だけが悪かったと言うより、当時の一般的な住居がそうだったと考えるべきでしょう。
セキュリティの面も決して良好ではありません。
当時の建築ですから、鍵などはなくふすまで間仕切りがされた程度でした。それだけならまだしも、繁忙期には相部屋は当たり前です。もちろん、相手は見知らぬ他人同士です。
いつ何時盗難に会うか、わかったものではありません。
実際、旅の心得え本には、相部屋になった場合はサイフを布団の下に隠すなどの盗難防止を講じるようにと指南したものも多く見られます。皆さんご存じの八次郎平、喜多八の珍道中「東海道膝栗毛」にも、相部屋の人間の正体が護摩の蝿(コソドロ)で、八次郎平が財布を盗まれたエピソードがあります。
本陣など高級旅籠では、鍵付きの離れの部屋を設けていたところもあったようですが、一般庶民にとって手が出せる料金ではありませんでした。
シラミに続いて眠れなかったという記述が多かったのが宴会のうるささです。
部屋数が5部屋程度しかない規模です。宴会場などあろうはずはありません。当然、隣の部屋で酒盛りが始まると、ふすましかない防音設備ですから大声が丸聞こえ。中には隣部屋の客からの博打の誘いも珍しくなかったようです。
旅行者にとって、酒盛りは旅の疲れを癒す格好のイベントですから、頻繁にあったことでしょう。
というのも、街道は夜になると街灯などはありませんから真っ暗。盗賊や野生動物に襲われるのは危険ですから、宿場には夕方、日の暗くなりかけたうちに泊まっておかなければなりません。
すると、最初にやることは疲れを取る風呂。そして、アンマです。当時のアンマはかなり繁盛したようで、旅籠の経営者より裕福なものが多かったという記録さえ残っています。
次に食事。それに酒が加わるのは自然の成り行きです。
食事といえば、現代の日本旅館では目玉のひとつですが、江戸時代の当時はそうでもありませんでした。前述のように、旅籠の規模が小さいため、料理人を置く余裕もありませんでしたから当然です。旅籠の中には地方の特産物などの食材を売りにするところもあったようですが、一般的には普段の食事と変わりませんでした。つまり一汁二菜です・
最後に寝具です。
シラミは主に寝具が原因です。
殺虫剤が発達していなかった当時ですから、客がシラミを持っていると、それが寝具を介して別な客に移るという構造です。
ちなみに、飯盛旅籠では飯盛り女の提供で利益を上げていましたから、飯盛り女を依頼しない客は「招かざる客」です。そのために、寝具も薄い布団1枚しか提供しないといった、あからさまな待遇の差がありました。
旅館組合「講」の存在
江戸時代後期の旅籠の経営悪化にはいくつかの理由があります。
ひとつは各地で頻繁に起きた火事による建て替え費用の負担です。出火の理由は不明ですが経営に与える負担は相当なものがあります。
もうひとつが幕府の価格統制。
大名相手の本陣も長い参勤交代のおかげで台所が事情が悪く、値切りは当たり前。とうとう代金を踏み倒そうという不埒な大名も登場したほどです。
従って、上客相手の商売のはずだった本陣も経営的には厳しく、結局、飯盛旅籠の一人がちの様相を示していました。
そんな状態でしたが、努力の後も多々見られました。
最大のものが「講」と呼ばれる旅籠組合です。
「講」の最大の活動は組合旅籠の厳選とリストの発行です。
客のメリットは安全性が高く、衛生的にも優れている旅籠がすぐに分かることです。また、組合加入の旅籠での苦情を「講」に申し入れれば、最前を尽くして改善していました。タクシー近代化センターや風俗ガイド店のような役割です。
旅籠側のメリットは「講」に所属することで、広告宣伝になり、かつ高いクオリティ保証が明確に客に伝わることです。
メディアが未発達な江戸時代にはなかなか広告ができません。一部、小説などに自社商品の名前を入れてもらうといった、今で言う「有料パブリシティ」のようなものしか事実上ありませんでしたが、旅籠のような弱小業種には到底無理な話です。
宿場町での客引きがエスカレートした結果、やくざなどを使い、問題になった記録まで残っているほどです。そんな中で客引きには目もくれず自分の旅籠に直行してもらうメリットは相当大きいものがあります。
「講」のターゲットは実は庶民ではありません。商人達です。
庶民と違って、商人は定期的に地元を出ます。そのほとんどが行商人で、商品を担いで売り歩く人たちだからです。つまり、旅籠にとっては常連さんになる確率が高い客層なのです。しかも、当時は旅に出ることは脱藩に繋がる可能性が高いので奨励していませんでした。従って、庶民は原則として連泊が法律で許されませんでしたが、承認は長期滞在ですから、旅籠の経営が安定します。
旅籠にとって商人が上客なのにはもうひとつ理由があります。
庶民は宿帳に記録してもそれが正しいとは限りません。しかし、商人は間違いなく本当の住所を記載してくれます。すると、宿泊費不払いなどのトラブルがあっても、家元に請求できるのです。
また、商人達は商人達で、商品を抱えておけるだけを売りさばいても、旅費を考えると利益が出ないため、大量の商品をあらかじめ売りさばく先に送っておかなければなりません。倉庫が必要と言うわけです。旅籠はその役割もになっていました。商品保管倉庫です。
そうなると、盗難などに対して厳しい品質保証の旅籠でなければ商人達は利用したくありません。「講」はそんなところにも役立っていました。
常連客が欲しい旅籠と、商品補完機能を持ち、安全を確保してくれる拠点が欲しい商人。
それら双方のニーズが合ったところが「講」と呼ばれる組合だったという訳です。
「講」に所属せず、元々禁制である飯盛り旅籠にも転換できなかった旅籠の経営は惨憺たるものでした。その結果、前述したように、客引きにやくざを使うような荒れ方をしていきます。
完全に無頼の巣窟になってしまう前に明治維新を迎え、大名がいなくなった本陣と旅籠が歩み寄った形で旅籠の進化は日本旅館へと進化します。
また、蒸気機関車という遠方への移動手段が発達したために、街道筋の旅籠は姿を消していき、交通や商業のターミナルの旅籠が残って旅館となったのです。
旅籠は日本旅館のルーツと思われがちですが、江戸時代の旅籠の利用形態はビジネスホテルに近い「通過点」です。私たちが観光で「滞在」や「拠点」するイメージではありません。
その理由は文中で触れたように、江戸幕府は旅が脱藩行為につながるとして、旅行を制限し、連泊を認めていなかったからです。事実、江戸時代の庶民旅行の大半が幕府か唯一許可していた「お伊勢参り」などの宗教上の理由にかこつけたものでした。
幕府が許可した移動にはもうひとつあります。
湯治と遊山です。
両方とも遠征ではありません。近場の移動、主に藩内での移動だったために、比較的規制が緩やかだったのです。
特に、湯治は治療ですから長期滞在が不可欠です。
湯治の本人も本当は治療かどうか怪しいものも多くいたようですが、「見舞い」と称して長期旅行を楽しむものも数多く出現したようです。
もちろん、湯治客や遊山客をターゲットとした旅籠が出現します。
ただし、湯治用の旅籠は基本的には自炊、つまり木賃宿でした。今で言えばコテージや山小屋のようなものです。従って、湯治客は米や味噌を抱えて現地に赴いたのです。
従って、旅籠とはいうものの、文化らしい文化は発達しませんでした。
歴史から分かる旅館
こうやって、江戸時代の日本旅館の歴史をざっくりと眺めてみると、いくつものことが分かります。
まず、江戸時代の主流であった街道沿いの旅籠は、現代では消滅してしまった、あるいはビジネスホテルに取って代わられたことです。
自炊の木賃宿から食事付きの旅籠に進化したのに、再びホテルという食事なしの形態に逆戻りをしているのは、面白い傾向です。一見、現代の方がレストランなどの外食産業が発達しているので、わざわざ宿泊施設で食事をしなくても良いからと思いがちですが、江戸時代でもちょっと大きい街ではそば屋なとの食堂があった訳ですから、その理由にはなりません。
ここでは細かく話をしませんが、西洋式ホテルが持つ機能性やプライバシー保護体制が現代日本人の価値観に合致したと考えるべきです。京都などの観光地や商業地の旅籠もビジネスホテルや都市ホテルに変化しましたが、原因は同様です。
唯一、京都などの都市型観光地で高級旅館として生き残ったのが、本陣などで培われた「もてなし」の文化でした。旅籠文化と本陣文化が融合したというより、旅籠が本陣文化を取り入れて進化したと考えるべきでしょう。旅籠独自の文化は現代の高級旅館には残っていないからです。
一方で、現在残っている日本旅館のほとんどは観光地や温泉地にあります。しかし、湯治や遊山の木賃宿の文化(自炊)は継承されず、旅籠文化(食事提供)を取り入れて生き残ったと解釈した方が正しいでしょう。
つまり、湯治旅籠は自分達のシステム(自炊)を捨て、旅籠文化を街道筋の宿場から移入し、それをよく言えば継承し、悪く言えば模倣して進化し、現代の日本旅館になった訳です。
しかも、料理人はいない、メイン顧客は商人、目玉となるほど料理は充実していなかった、治安・安全は厳密には守られなかったのが江戸時代の旅籠です。
現代日本旅館との差はありすぎるくらいにあります。
考えようによっては、観光地の現代日本旅館は明治時代からの100年あまりしか歴史を持っていないのです。
現代日本旅館は日本の伝統を残していると言われます。
しかし、厳密に見れば、障子やふすまだけで隣部屋と区切られているわけでもありません。鍵もきちんとついています。トイレも水洗です。フロントが設置されている日本旅館も多く存在します。
そう考えると、日本の伝統を残しつつ、現代人の生活スタイルに見合った改善をしていることがよく分かります。
問題は、それらの「現代人に合わせた改善」が一様ではないことです。つまり、改善が現代人に追いついている部分と改善が遅れている部分が混ざり合っているのです。
例えば、プライバシーや安全面ではエアコンなどの発達のおかげで、きちんとした壁で個室になり、ふすまの代わりに鍵付きのドアになりました。
衛生面ではさすがにシラミは発生しませんし、保健所の指導で最低限のレベルが確保されていますが、ホコリが溜まっていたり鏡が汚れたままになっているのが放置されています。
見知らぬ客との相部屋はもちろんありませんが、「共同」の発想が残ったままです。大きな風呂は仕方がありませんが、共同で使う脱衣所のカゴ。共同で使う風呂場のシャンプーやドライヤー。共同で使うトイレ。共同で使うスリッパ(?)。
「日本の伝統の良さ」を錦の御旗に、その実「日本の伝統の悪いところ」もきっちり残している。
どうしてなのでしょう。
江戸時代の旅籠は幕府の規制があったのに、様々な工夫や努力をしてきました。食事の提供、飯盛り女、「講」の組織化、安全・衛生のための客の厳選。
今回は書きませんでしたが、関所破りの手伝いなどもしている旅籠も少なくありませんでした。
そのパワーがあれば、日本古来の旅籠文化を現代人のニーズにフィットさせることは可能だったはずです。どこかで旅館業界が骨抜きになってしまったのでしょうか。
そのヒントは前述しなかったサービス面にありました。
江戸時代の接客面についてはあまり資料は残っていません。観光ではなく歩き旅なので、接客面では多くを求めなかったことが原因です。というのも、幕府の統制が厳しかったので、連泊ができず、接客に触れる時間が少なかったからですし、歩き旅なので朝早く起きて夜は早くねるので、接客に触れる時間がさらに短かったためです。
それでも、サービスが良いと、今でいうチップに当たる茶代を差し出した記録が残っている程度です。ただ、従業員を多く抱えている訳でもなく、オーナーである家族が経営しているため、平均的な接客は悪くはなかったことでしょう。
しかし、現代の旅館では「朝食は8時から9時までです」とルールが決められ、夕食をゆっくり食べようとすると仲居さんにせかされる。また、朝は布団担当に否応なくたたき起こされる。そんな「旅館側の自己都合の押しつけ」が散見されます。
業界骨抜き時期
実質的には押しつけですが、見方によってはスポーツ部の合宿のようです。あるいは修学旅行にも良く似ています。
そう考えると、ありました。
業界骨抜き時期が。
それは皮肉にも、業界が最も大きく拡大した昭和30年代から40年代だったのです。
旅行に慣れていなかった日本人の入門となるのが修学旅行。これは、昭和30年代に旅行代理店が進めたマーケティング施策でした。国鉄(当時)の空いた列車を買い取ります。それを大量にさばくシステムとして考案されたのが修学旅行です。近畿日本ツーリストが先駆者でした。
これが大ヒット。
次に出てきたのが金融機関との提携で浸透した社員旅行。旅行積み立て金として毎月金融機関にお金をあずける。預金残高を増やす格好の方法でした。
これも大ヒット。
かくして、団体旅行が旅行代理店にしても旅館にしても主流になっていきます。
そうなると受け入れ体制が問題になります。
せっかく1,000人もの修学旅行の団体契約を取っても、当時は一度に宿泊できる旅館がありません。100人づつ10の旅館に分けて客を送り込むのはあまりにも面倒です。
旅行代理店の要請で500人、1,000人が収容できる大型旅館や観光ホテルがつくられて行きます。
さて、そんな大量輸送、大量処理の時代では、旅館側にとってみれば、客は宿泊客ではなく旅行代理店の担当者になります。
宿泊客は旅行という物珍しい体験に浮き足だっていますから、サービスなどの善し悪しはわかりません。クレームが出ない程度のサービスで十分です。しかも、教師が統制を取る修学旅行や上司の命令が絶対である社員旅行です。「こうです」と「命令」「ルール」「制約」があっても、不満は出てきません。
しかし、旅行代理店の機嫌を損ねたら旅館はアウトです。
彼らにそっぽを向かれてしまったら、1,000人単位の客が来なくなり、設備が遊んでしまい、巨額の利子が重くのしかかってきます。
かくして、旅館のサービスは下がる一方。
時が経ち、旅慣れた私たち生活者は、「そんなサービスなら、ない方がよい」「だったら、安く、たくさん泊まれるところに行く」とホテルにどんどんと移行する。
食事が良い例です。
レストランに行けば、一人一人のために、温かい料理が出てくるのは当たり前です。
でも、旅館では、冷たい料理が多く、天ぷらですら冷たいまま。
暖かいのは、客の前で火をつけてミニコンロで食べる鍋くらい。
「なぜ?」
と聞くと、旅館から返ってくる答えは
「たくさんのお客さんがいるから、そこまで手がかけられない」
と言われるばかり。ホテルだって「たくさんのお客さんがいる」のに。
その割に、料理の価格は数千円と、都内の一流レストラン並み。
これで納得しろという方がおかしいというものです。
救世主スーパーコンパニオン
「スーパーコンパニオン」という存在が、今、一部で大人気です。
普通のコンパニオンと違って、ハダカにシースルーの薄い衣装をまとっただけ。お触りがOKというスーパーコンパニオンも数多くいます。要するに色気サービスです。
それが、1泊2食付きで2万円から3万円で楽しめてしまう。
そう、江戸時代のライト版(本番なし)「飯盛旅籠」です。
スーパーコンパニオンを派遣する旅館のみが今、ようやく黒字で一息ついている。そんな状態なのです。
「いっそのこと全部そのツアーしか受けつけないようにしてしまえ」
と、腹をくくったある旅館の女将の一言が頭に焼き付いて離れません。
だって、一般のお子さま連れのお客さんにも、シースルーのハダカのような女の人が見えてしまうのです。老舗の尊厳はぶちこわしです。
だから、いっそのこと全部スーパーコンパニオンつきにしてしまったのです。
この代々続いた、この旅館を潰すか、生き残るか。
悩みに悩んだ挙げ句の選択肢だったのです。
確かに経営的には潤っています。
でも、スーパーコンパニオン・ブームが去ってしまったら、後がありません。
これからどうなるんでしょうか…倒産に怯えるのは今も昔も結局変わりなかったのです」
これも時代が回り回る、と受け入れるのか、なんとしてでも頑張っていくのか。日本旅館の正念場はこれからです。
【参考HP】
今となっては珍しい、暖かいサービスの旅館です。私の友人でもあります。
紋屋
http://www.monya.co.jp/
【使用画像】南房総白浜 季粋の宿 紋屋