1234567890…たくさん
私達の生活の中には数字が溢れています。
ただ、仕事以外では四則演算ですら、あまりお世話になりません。家庭に1台は必ずある電卓が、あまり使われることがないことからもそれは実感できます。
その代わり何を使うか。
数字を代替する言葉です。
「時々」
「たまに」
「何日かに1回」
「数週間」
「みんな」
「滅多に」
「ほとんど」
ところが、これらの言葉は本来の定義があるものの、実はかなり感覚的に使われ、場合によっては、その解釈を巡ってトラブルになることすらあります。
もうひとつ身近に数字を感じるのは新聞やニュースなどのデータです。
最大のものは「投票率」「視聴率」等のデータですが、「世論」等もデータとして数字が主役になります。
今回はそういった「身近な数字の扱い方」をオムニバス形式でお送りします。
1番目は最もスペースを割いた「みんな」をテーマにしたパート。
2つ目は「『グラフでの嘘のつき方』の大嘘」
新聞がいかに危ういグラフの使い方をしているか。実例で解説します。
最後に「『30%しか』か『30%も』か」
紙面の関係で、数字の判断基準について問題提起だけをしています。
数字に惑わされない生活を送っていただきたい。
これが私の今回の願いです。
なお、今回は数字に詳しい方には物足りないかも知れません。その時はおまけの問題で楽しんで下さい。
テーマ「みんな」:まじめか杓子定規か。いや、レミングだ
「みんなって一体誰なのさ」の導入は、本当の「みんな」についてのお話です。
私は自分の通勤沿線とどうにも相性が悪いようです。様々なトラブルがあります。
さすがにJR渋谷駅で私が目撃したように、酔って暴れている乗客の一人を4~5人の駅員が寄ってたかって蹴り上げ、ぐったりした後でおもむろに駅長室に連行するような、ヤクザまがいの暴力行為の経験はありません。
ちなみに、JRは酔客に暴行された駅員の件数が増加したので、今後は裁判を含めて検討すると発表したのはその2ケ月後でした。厚顔無恥ということばは、彼らのためにあるのだと納得した覚えがあります。
それは、私の通勤沿線が遅ればせながら自動改札機を導入した直後のある日でした。
その日はプレゼンテーションで、重さ6kgのポータブルOHP、300ページ分のOHPシート、総枚数1,500ページの報告書コピーを抱えて、自宅から電車に向かうときでした。その時は徹夜ぎりぎりで報告書を仕上げていたので、たまたま誰も手伝えなかったので、私一人で大荷物。
タクシーは時間どおりに到着しない場合も多いので、こういう時には使いません。
自動改札は狭いし定期券を入れなければならないため、重さ30kgの手荷物が邪魔になります。
そこで駅員の前の通路を通ろうとしたところ、
と、止められてしまいました。非情にも、改札口のドアは私の手前でパタっと閉まってしまいます。
その時の私の姿も情けないものでした。4つもの荷物を抱えてヒイヒイ言っています。紐が手に食い込んで痛いの何のって。
と駅員。
見ると、確かにあちこちに「自動改札をご利用下さい」というポスターがベタベタ貼ってあります。
「ちょっと待ってください。この改札口は何のためにあるんですか?こういった荷物を持っている人たちのためじゃないんですか?」
大阪に3年住んでいたことがある私にとって、それは常識でした。関西ではその10年も前から自動改札機が使われていました。
「強化月間です。自動改札口しか使えません」
温厚な私(?)も、さすがに切れました。
私のイメージを損なわないように、途中経過は割愛しますが、次の場面はいきなり駅長室です。
私: 「『なかなか使わない』って、私が見る限りみなさん使っているようですが、使用率は何%なんですか?」
駅長:「75%しかありません」
私: 「へ?」
私は目が点になってしまいました。
2ケ月後に75%なんて大成功です。それだけあれば十分じゃないですか。
でも、すぐに納得が行きました。
彼らは、乗客を人間として見ていないのです。「感情があり、自分の判断で動く人間」だと思っていない。単なる「乗車する存在」です。
これはどういうことか。
相手が人間でなければ、例えば機械なら100%ある指示や提案に従って動くことができます。
でも、自分の意志で動く人間にとって、全員が同じことをすることは、まずありえません。我々のようなマーケティングという社会科学を扱っている人間にとって、100%同じ行動をする人間の集団は「異常」だと考えます。例えば、戦時下の軍隊です。
朝の大変な混雑でも整列をして行儀良く乗り降りをし、不良外人のように改札口をダッシュして無賃乗車をするような無頼漢もいない。そんな私たち乗客が鉄道会社の人間にとって、あたかも、ベルトコンベアに乗った部品のような無機質なパーツが運ばれるように見えても仕方がありません。
いや、彼らには乗客がレミングに見えているのかも知れません。
テーマ「みんな」:放ったらかしてさっさと帰るのが正しいマーケティング
多人数の人間相手の商売で100%なんて不可能です。
例えばこんなケースを経験された方も多いと思います。
あなたは飲み会の幹事です。ようやく大役を終え、終了の時間がやってきました。年長者に頼んで、「締め」をやってもらいます。
しかし、かなり盛り上がっているので、誰も帰ろうとしません。
そこで、声を張り上げます。
「は~い、みなさん。1次会は締めましたよぉ~」
6割が重い腰を上げてくれました。が、まだ4割が残っています。
再び、あなたは声を張り上げます。
「はい、はい、はい、はい。1次会は終わりですからね」
大半はしぶしぶと引き上げてくれたものの、数組が残っています。熱い議論を交わしている奴、女性を口説いている奴、様々です。口説かれている女性はまんざらでもない様子。
仕方がないので、あなたは実力行使に出ました。
それぞれの席に行き、直接、話しかけて追い出します。
これで、ようやくあなたの役目は終了です。
この例では、1回目のお知らせで、6割の人があなたの「メッセージ」を聞いてくれました。
でも、3割の人たちは「合計2回」もがなり立てないと聞いてくれません。
最後の人たちは「ことば」だけでは、あなたの意志(お願い)は伝わりませんでした。
「自動改札を使いましょう」のポスターや広告はあなたの「メッセージ」や「がなり声」です。
広告を増やせば増やすほど覚えてくれますが、段々その効果が薄れます。幹事の例で、6割が3割になったのを思い出してください。そして、とうとう広告では効果がない、つまり声だけでは動いてくれない人々が残ります。
そう、マーケティングでの幹事は「女性を口説くのに必死になって、幹事の言うことに気がつかないような奴は、放ったらかして、さっさと2次会に行く」のが正解なのです。
私の通勤沿線は「実力行使」に出ました。
しかし、自動改札機は電車が到着したときに白線の内側で待たせるのと質が違います。自動改札機はあくまでも、鉄道会社の都合です。乗客が従わなければならない理由はどこにもありません。
しかし一方で、白線の内側は事故になると多数の乗客に迷惑がかかります。鉄道会社も事故が起きると被害を受けるので、共通のメリットがあるというだけです。
ここで問題なのは、それをわからずに100%の人間を従えようとしている勘違いです。
「ポスターなどで呼びかけているのに、75%しかやってくれない」と気に病んでも仕方がないのです。いや、強化月間は人件費の無駄と利用客の反発心を産むだけです。
テーマ「みんな」:「みんな」という殺し文句
ある社長が放った言葉があります。
皆さんも良く使いますよね。
「みんな、こう言ってますよ」
「みんな」がなぜ説得力を持つのか。
心理学で「親和欲求」と呼ばれる心理を引き起こすからです。
不安な時、他人と一緒にいたいのは、親和欲求の高い人たちです。
逆に、不安な時、一人でいたいのは、親和欲求の低い人たちです。
人間は集団社会を作る動物ですから、親和欲求が高いのは自然です。「みんな」というキーワードは人間の本能とも言うべき親和欲求を刺激するのです。つまり「みんなそうしている。だから自分も」の心理状態です。
私はひねくれ者なので、「みんな」という言葉を聞いた途端、意地悪になります。
目に余る相手には突っ込みます。
「私のまわり、みんなです」
「ところで、山川さんの友だちは何人いるの?」
「30人くらいです」
「そのうち、何人がそう言っているの?」
「えっと…あっ、5人です」
私の会話には、できるだけ「みんな」という3文字は登場しないよう気を使っています。
それでは、「みんな」とは一体どれくらいの割合をいうのでしょうか。
周囲の人たちにそのイメージを聞いてみると、60%から100%までの間で「みんな」というイメージがあるようです。
統計学上の「みんな」は70%ですから、大体一致していますね。
ではなぜ山川さんのようなことが起きるのか。
理由は2つあります。
1つは感覚的な言葉のままだから、自分の都合の良いように使ってしまう。
もうひとつは、彼の思考の一瞬だけは確かに「みんな」だったからです。
彼は私を説得したい、自分を守りたいと思います。その時に味方がいるかどうかを考えます。
「あっ、いたいた。えっと鈴木がそうだろう、宮本も同じだよね」
そこで、思考は止まります。
一瞬ではありますが、頭に浮かんだ人物は「すべて」自分と同じように行動しています。
「ラッキー。これで、自分が正当化される」
と思った瞬間、口から出てくるのが
「みんなやってますよ」
です。
人間は弱い動物なので仕方のない一面です。
テーマ「みんな」:マスメディアと「みんな」
ところが、マスメディアが介在すると一気に話がややこしくなります。
と聞くと、時々出てくる答えが次のようなものです。
そんな時、また意地悪になります(笑)
「えーと、2~3人…です」
「その人数で『みんな』って言えるのかしら?」
たまに、口答えをする元気者がいます。
「確かにそうだね。だったら、友だちに『そういう人たちがいるか』と確認してから、私と話そうよ。だって、知らない同士が推測で話したって、時間がもったいないよね」
…ほとんど、報告がありません。
だって、ありようがないんです。
私の経験では、マスメディアと普及率の関係はこんな感じです。
一般の雑誌は2~3%の普及率で記事にし始めます。
新聞はニュースは別として、2~5%くらいから。
そして、テレビは7%くらいから。
最後に普及率が10%を越えると、マスメディアは話題にしなくなります。
マスメディアが皆さんの「本当に身近な話」を記事にしたって「当たり前じゃないか」と思われ、誰もその新聞や雑誌を買ってくれません。「日本の大学は4年制だ」というタイトルで記事にはなりません。
「日本の大学を3年間で卒業した、秀才のその後を探る」
こんなタイトルならおもしろそうです。
回りにそのような人たちはいないし、聞いたこともないからです。
テーマ「みんな」:誤解が社会を動かした「援助交際」
「マスメディアはみんなの象徴ではない」のおもしろい例として、「援助交際」が上げられます。
新聞で盛んに書き立てられたことがありました。
周囲に女子高生がいない中年男性(いや、20代以上の男性)は、
と妄想を膨らします。
しかも、記事には当の女子高生が「『(自分の周りは)みんな』やってるよ」なんて言うものだから、更に話がややこしくなります。
その情報は婦人団体、女性議員にまで伝播。
東京都に初めて淫行条令などという名前からして危ないものができあがり、スケープゴートとしてテレクラを代表とする業態が血祭りに上げられ、数多くが廃業の憂き目に会ったことは、ご存じの方も多いと思います。
あるテレクラが店に電話をかけてくる女性の職業分布を調べたところ、高校生以下が5%であったことを発表し、世論で言われているような援助交際は極めて少ないと主張しようとしました。が、感情的になった民衆とそれに迎合する政治家に勝てるはずもありません。
調査の数字が信用に足るものなのかどうかは別にして、現実に近い数字だろうと私は判断しています。というのも、私の推定では女子中高生のうち、2~3%程度しかセックスが絡む援助交際をやっていないからです。
おもしろい数字を見つけました。
数字の信憑性は分かりませんが、女子高生をメインターゲットとしている雑誌「ランキング大好き」(1999年7月号)で、「やったことのある悪事」という質問がありました。記事での単位を%に直してあります。
1位 | 万引き | 75.4% |
2位 | キセル | 13.3% |
3位 | 援助交際 | 3.0% |
4位 | ピンポンダッシュ | 1.9% |
5位 | サボリ | 1.3% |
これには悪事をしたことのない女子高生は含まれていませんので、女子高生全体の数字はもっと減ると思います。
反対に、援助交際を悪事だと思っていない人が多い、援助交際は恥ずかしくて言えない 、援助交際するような女子高生ばかりが読者だったという見方もできます。しかし、この雑誌が一般的なファッション誌であることを考えると、そう大きな数ではないでしょう。
もともと、金銭が絡む絡まないは別にして、ナンパなどの「遊び」でセックスをすることに抵抗がない女性は、いつの時代も5%程度は存在します。直接的に相関があるわけではありませんが、援助交際率2~3%は驚くべき数字ではありません。
なお、2~3%の数字はバブル直後のものです。
バブルのせいだけでなく、調子に乗った本人たちに援助交際相手である男性があいそをつかし、彼女たちから離れていった結果、一時期5万円、10万円といった相場が6,000円にまで下がった現在、供給量が減少し、援助交際率は一時的に下降しています。
女学生やOLの「売春」は大正時代から記録に残っています。今に始まったことではありません。しかし、女子高生のみんな(70%)が援助交際をやったなどという時代は日本の歴史上存在しません。
「1人たりともやってはいけないこと」という道徳論からの話なら別ですが、マーケティング、いや、人間行動という観点なら、目くじらを立てる数字ではありません。
良識ある読者の方々、ご安心めされい。
あっ、男性読者の方々、ゆめゆめ「なぁんだ、残念」等のコメントは読者の声で送らないように(笑)。
その場合は余計な議論を呼ばないように、読者の声の発表では大幅に編集させていただきます。
ちなみに、中年男性の私がこういう話をすると、あらぬ疑いをかけられることが多いので、あらかじめお話しておきます。
私個人は「セーラー服恐怖症」です。3メートル以内に近づきたくありません。高校3年生の姪が制服のまま自宅に遊びに来ようものなら、こそこそとオフィスに出勤してしまいます(笑)
テーマ「グラフ」:「グラフで嘘をつく方法」の大嘘
話が危なくなりそうなので、次の話題に移りましょう(汗)。
「統計で嘘をつく方法」等という本を見ているとよくあるのが、グラフによる嘘のつき方です。
例えば、こんな例を良く見かけます。
縦横の比率を変える方法です。
数字の違いを印象づけようと思えば、縦の比率を長くする。縦が長いと、隣り合ったグラフの差が強調されるからです。また、逆に差がないと主張したいときには横に長くするのが効果的だと説いています。
ちなみに、上のグラフは同じデータを縦横の比率を変えただけのものです。
また、差を強調する場合は、グラフのベースの足切りをします。
ベースをゼロにすれば、ほとんど差が目立たないグラフでも、足切りをして途中の数字からグラフを作れば、いかにも違うような気がする。
また、横軸が期間等の場合は、その距離を無視したり、間引いてしまうウルトラCもあります。例えば、
1月 | 10% |
2月 | 12% |
3月 | 15% |
4月 | 18% |
10月 | 22% |
11月 | 23% |
なぜか、5月から9月までのデータが入っていない。
これらは「嘘をつく方法」ではなく、グラフの基本を無視しているのであって、あえて言えば「合法的な嘘」というより「非合法の悪意」です。節税と脱税の差、冗談と詐欺の差があります。
グラフ作りの基本は、例えば縦横の比率は1対1.4(書類や雑誌を横にした比率)に決められており、扱う要素は7つが限度とすることが望ましいとされています。
だから、縦や横に長いグラフはそれだけで失格です。
テーマ「グラフ」:嘘だらけの新聞記事
グラフの嘘の例を皆さんにお見せしようと、新聞を開いたらすぐに見つかりました。
しかも、おまけつきです。
まず、グラフをお見せする前に新聞記事の本文をご紹介しましょう。
5月22日の日経流通新聞で、包丁市場について報じたものです。
「刃物」の国内生産の60%のシェアを持つ中略の包丁出荷額は97年が68億3千万円と最近のピークである95年に比べ8.5%減った。」
この本文から、思い浮かべるグラフをシストラットの学生バイトに書いてもらいました。その典型がこれです。
93 ■■■■■ 94 ■■■■■■■ 95 ■■■■■■■■■■■ 96 ■■■■■■■■■ 97 ■■■■■■■ |
正解は下の図です。
正解のグラフを見ると「95年をピークに下がった」というより、「95年は異常に上がった」と解釈すべきでしょう。
「ピークに下がった」と言うと、そのピークが当たり前のような印象を与えます。でも、「異常に上がった」と表現すれば、そのピーク以外が当たり前という意味になります。事実、少なくともこの5年間のグラフを見る限り、95年以外は「順調に伸びている」のですから。
このグラフにはまだ秘密がありました。
縦横の比率が横1に対して縦2の割合。つまり、差が異様に強調されるグラフなのです。
そして、爆弾がもうひとつ。
流通新聞のグラフは「波線足切り」だったのです。
テキストグラフにすると、こんな感じです。
上のグラフ目盛りの単位に注目してください。基点が0なのは当たり前ですが、すぐに「65億円」になっています。
これを足切りせずにグラフにすると、下のグラフのようになります。
グラフ目盛りを見てください。0から70億円まで均等の距離です。
確かに95年はこの5年間で最も多い年ではありましたが、「異常に」出荷数が多かったとは言えなくなります。
むしろ「何か大量受注でもあったか、他の包丁の産地にトラブルがあって、予想外の注文が舞い込んだのかしら」程度の軽い印象です。
そして、先ほど指摘したように、95年を除けば、むしろ需要は伸びています。
新聞に書いてあるように「生活スタイルの変化により」構造的に包丁の需要がなくなったなんて、少なくともこのグラフからは想像もできません。
新聞の記事、特に数字はゆめゆめ盲信することなかれ。
テーマ「数字の判断基準」:「30%しか」か「30%も」か
あるメールマガジンの記事で、調査の分析について、こんな記述がありました。
うーん。この文章を書いた方は大変、幸せな方か、あるいはクライアントに対して絶大な信用を持っている方でしょう。
残念ながら、我々のようなプロのコンサルタントですら、
等とは言えません。
クライアントはクライアントで数字を見ています。自分たちで、その数字が高いか低いかを評価しようとしています。もし、私の評価と彼らの評価が異なった場合は、きちんと説明できなければいけません。
冒頭の発言をした人とのこんな会話なんて、いかにもありそうです。
「朝食が大事だというのは当たり前のことだからです」
「『当たり前』って、誰が決めたの?」
「イヤだなぁ、森さん。それって、常識じゃないですか。小学生だって知っていることですよ。第一、医者に聞いたらみんなそう言いますって」
じゃあ、クライアントの●●食品が
『70%もあるのは高いと思う。少なくとも自分の周りには、そこまで真剣に朝食を考えている人間はいない』
と言ったら、あなたはどうしますか?」
「そういう反応はありえないと思いますけど、もし、クライアントがそう言うなら、報告書を修正します。クライアントはやっぱり自分の産業については詳しいですから、私がいうよりは正しいのではないですか?」
この会話のどこが変なのか、もうお分かりですね。
彼の分析では分析でなく、参考にしか過ぎなくなってしまいます。
数字を数字としてしか見ないと、泣きを見る
数字はナイフと同じです。
使いようによって、山で遭難したときに命を救うこともあれば、人の命を奪うこともあります。人を説得する力と惑わす力を持っています。
そして、また、本文中で指摘したように、数字の先にはあくまでも「血の通う人間」がいます。マーケティングという分野においては、人を見ない数字はもはや数字ですらありません。
使う人間によって様々な表情を見せる数字が私は大好きですし、同時に畏怖の念も持っています。数字は生きています。これだけは忘れてはいけません。
もちろん、その数字を見た上でどう判断するかは別物です。
女性を口説くのに忙しくて、幹事の言うことを聞かない奴は、やっぱり放ったらかしにするのがマーケティングではベストです。
個人的には、せっかくの2人の世界をぶち壊すなんて不粋なことは私にはできません。
そっとしておいてあげたいと思っています。
数字に関するおまけ:1=2であることを証明しなさい