■イメージのお話【イメージ】

artc20020415今回はストレートなタイトルにしてみました。
内容はそのまんま「イメージとは何か?」です。
一見、企業活動の専門用語にも見えますが、これほど私たちの生活に大事なものもありません。
目に見えないイメージという化け物を扱う私たちコンサルタントのイメージ論、とくとご賞味下さい。


前フリ

企業のマーケティングや企画部署で、良く耳にする言葉は「データ」と並んで「イメージ」です。

「企業イメージ」
「商品(ブランド)イメージ」
「ターゲット・イメージ」
「広告イメージ」

ほとんどの場合他の単語とくっついて語られます。
私たちの生活の中でも「イメージ」という言葉は健在です。

「あの人、イメージ悪いよね」
「それだとイメージが湧きます」
「イメチェン(イメージ・チェンジ)したね」

ただ、同じイメージという言葉でも、ネットやパソコンの世界ではちょっと違う意味を持ち、「(写真)画像」などを指すことが多い。
ホームページの記述言語である「HTML」でもimageは画像を表示する時に使う命令です。

乱用とも言える「イメージ」の普及ですが、意外にきちんとした定義で使っている人はいません。
日常会話では何の支障もありませんが、ことビジネスとなると差し障りが出てきます。

今日は、こんな「何となく使っているけど、実態はよく分からない」イメージをテーマにメルマガをお送りします。
今回は人気のワンテーマ辛口路線ではなく、一部の読者にしか受けない (笑) 解説路線の記事です。

視点は

「そもそも、イメージとは何なんだ?」

です。
もちろん、私のメルマガですから、マーケティング用語としてのイメージの解説です。決して、ネットのエッチ画像ではありませんので、悪しからず (笑)

イメージとは「その人が理解しているコトやモノ」

「虚像」…

「イメージとは何ですか?」という質問をすると、まず返ってくるのがこの言葉です。
普段何気なく使っているのに、改めて質問されると「本当の姿と違う姿」がイメージだと思いつくようです。

それでは、「イメージ」は悪いニュアンスか?
…というと、そうでもないらしい。

「イメージは『本来の姿とは違うモノ』という理解はありますが、かといって『良い、悪い』というニュアンスはありません。
むしろ単に『違うだけ』という感じです」
「それでは、『本来の姿』はイメージと呼ばないのですね?」

「うーん、そう突っ込まれると本来の姿と重なっているとか、一部は合っている場合は『イメージ』を使うことはありますね。
『イメージ・チェンジ』は、普通は服やヘアスタイルを変えることであって、その人間の性格や趣味趣向を変えるのとは違いますよね。
だから、イメージは『内面』ではなく『外面』のことを言うのだと思います」
私の質問が続きます。
「そうしたら、『あの人は怒りっぽいイメージがあるから近づきたくない』という時は『本当は優しい』と思っているのですか?」

「あれれ?
確かに、そういう時は『本当に怒りっぽいから近づかないようにしよう』と思いますね…だから、実態のことも『イメージ』と言います。
うーん、分からなくなってきた(笑)」

言葉が広がりすぎてしまったので、意味が曖昧になったり、色々な意味を複合的に持つようになってしまった良い例です。
他にはITやブランドなんてのもあります。本来の意味とは違う使い方をする人が増えて、結局、何がなんだか分からなくなる。
言葉というものは、時代とともに意味が変化したり曖昧になっていく宿命ですから、仕方がないことでもあります。

逆に、言葉がもつ曖昧さを利用することもあります。
例えば、初心者にはわかりやすさが優先しますから、多少、誤解があっても、彼らの知っている言葉に置き換えて説明すると、難しいことでも簡単に理解できる。

私の過去の69本のメルマガ記事でこのテクニックを多用していますから、マーケティングを良く知っている人から見ると、「森さん、間違った説明をしている」と感じる部分が多々あるはずです。
この点については、記事の後半で具体例を挙げて、ご紹介しましょう。

さて、イメージということばの定義です。
上のケースでは、

「あの人は怒りっぽいイメージがあるから近づきたくない」

の場合は、こう翻訳できます。

「あの人は怒りっぽいと私は理解しているから近づきたくない」

イメージチェンジの場合はこうなります。

「鈴木さんの今までの私の理解(おとなしそう、思慮深い)と違った格好をし始めた。
恐らく、これから時間が経てば、新しい私の理解が作られることだろう」

マーケティングではこんな感じになります。
ブランドイメージとは

私(生活者)が理解している、その商品の特徴や特性、感覚」

企業イメージとは

私(生活者)が理解している、その企業の特徴や特性、感覚。
そして、その企業がこれからやりそうだと私が理解しているコトやモノ」

です。

あえて、もって回った言い回しをしてみましたが、これでイメージという言葉の持つ本質が分かってもらえたと思います。
そうです。イメージとはその人が

「理解しているコトやモノ」

なのです。
従って、それが間違えていれば

「虚像」

になるし、正しければ

「実像」

になるだけです。

さて、これでイメージという言葉の意味が分かりました。
それでは、みなさん、ごきげんよう。
…と、久々に下らないギャグをカマしてみました(笑)

これで今回の記事が終わっては申し訳ありません。
それでは、マーケティングで、この「イメージ」という不思議なモノをどう扱うのか。この点に絞ってお話ししましょう。
ここからが本番です。

森は60歳の壮年か、30代半ばのお兄ちゃんか

「イメージとは、その人が理解しているコトやモノである」

と言いました。
マーケティングでは「その人」とは生活者のことです。
しかし、その理解が違っている場合も正しい場合もあるとも言いました。
イメージには「事実と合っている、合っていない」という概念は含んでいません。

こんな話をすると分かって頂けるでしょうか。
私に会ったことがない方の私のイメージは実物と随分違うようです。
初めてお会いすると80%の方はびっくりされます。
代表的な感想はこんな感じです。

「メルマガでの森さんは沈着冷静。観察力や分析が鋭いので、静かな、眼鏡をかけた神経質そうな方だと思っていました」

「いえいえ、私は、あなたが目の前にしている人間そのものですよ (笑)
で、会ってからどう感じたのですか?」

「良く喋るし、良く人の話を聞くし、くだらないギャグはかますわ、ニコニコしているわ、ネアカだわ、初めて会ったのにエッチな話はするわ…
失礼ですが、こんな人があんな論理的な文章を書くとは夢にも思いませんでした」

確かに失礼です(笑)

メルマガではなく、私の本しか読んだことがない方はまた別の「森イメージ」を抱くようです。
まだ若かりしき頃、36才のことでした。
ある世界的な大企業から、本を読んで興味深かったので企業内研修をして欲しいと電話で依頼されました。そこで、打合せにその企業に女性社員と一緒に赴いたのです。

入り口で部長と課長が出迎えてくれます。
丁寧すぎる対応です。
そこで部長から発せられた言葉は

「シストラットコーポレーションさんですか?」
「はい、そうです」と私。

「私、部長の鈴木と申します。お待ちしておりました。
…で、あのぉ、森さんはどちらで…?」

森さんは、と言われてもそこには私と26才の女性社員しかいません。

「はい、私ですが?」
「!!??
失礼しました。あの本を読むと、てっきりもっと年のいった方だと思っていたので…」
「年のいった?私36才ですが」
「あ、いえ、60くらいの年輩の方かなと思いまして…」

確かに私は仕事上では年上に見られることが良くあります。
新入社員の時には先輩から入社5~6年目に見られたし、28才の時に外注先からは40代と言われ、31才で40代後半と見られました。

老け顔ではありません(笑)
プライベートでは「46才だ」というと、特に女性からは「30代半ばだと思った」と言われるくらい童顔です。
仕事で年上に見られるのは、単に態度がでかいからです(笑)
しかし、この企業の場合、私の顔も見ずに本の印象だけで壮年だと思われてしまったのでした。

読者や部長さんが抱く「森イメージ」は「事実」と違いました。
それでは、私は「ウソをついている」のか?
本でもメルマガでも、私の文章は私という人間を隠しているのか?

それもまた違うようです。
私を知っている友人やクライアントからは、本もメルマガも

「森さんらしい」
「森節、炸裂ですね」

と言われます。
つまり、私の文章は「私という」実像をかなり正確に表しているハズです。

私は読者の皆さんに「ウソ」をついてるわけではありません。従って、友人や昔の仕事仲間とは違うイメージを持っている人がいたとしても、それは「虚像」ではありません。あくまでも実像(の一部)です。

この例で見るように、イメージは「実像とは違うモノ」「ウソをついて、見せかけのモノ」と定義するだけでは、正確ではないことが分かります。
そしてまた、イメージは実像とも「違う場合がある」し「同じ場合もある」。

ちなみに、くだんの部長さん、面白いもので、私が36才の若造だと知った途端に態度が一変し、自分の部下のように私を扱うのにはつくづく閉口しました。

もっとも、この会社とちょっとつきあいましたが、彼だけではありませんでした。若いというだけで人を見下す態度を取るのは、この企業の社風のようなものです。
外には「国際的で実力主義」という名声のある企業ですが、まぁこんなものです。
これもイメージですが「合っていない」方です(笑)

つい先日のみずほグループのシステムダウン騒ぎ。これも「銀行は正確無比」というイメージがものの見事に覆された良い例です。これなら、量目詐称の牛丼チェーンの方がまだかわいいモノです。

ただ、国会でのみずほグループ社長の「実害はない。クレームが続いただけ」という答弁は「(愚民である預金者や、1日でも支払いや振り込みがずれただけでも倒産の憂き目にあう中小企業のことなんかどうでも良い)プライドが高いエリート集団の銀行」のイメージどおり。

加えて、警察の検挙率が19%にまで落ちていることの発表。殺人犯や窃盗犯など4人に3人が捕まってない。私の自宅からたった5分の「世田谷一家皆殺し事件」も解決していません。お~い、早くしてくれぇ。未成年者の援助交際に力を入れている場合か?
「日本の警察が世界で最も優秀」「東京は世界で最も治安が良い大都市である」も、もはや「合っていない」方です(笑)

ビタミン剤はなぜビタミン剤なのか

さて、イメージとは生活者の理解した(商品や企業の)内容ですが、これはマーケティングでは、かなり重要な意味を持ちます。
「生活者が理解した内容が」すべてであり、生活者は「それに従って」行動したり判断するからです。

「何、アフォなこと言ってんですか、森さん(2ちゃんねる風 (藁)。
そんなもの当たり前じゃないですか。
そんなこと書いていると、また大きな広告代理店から
『どーでもいいことを、それらしく長々と書いているだけで時間の無駄。読んで損した』
なんてメールでイヤミを言われてしまいますよ(笑)」

いやいや、そんなことはどうでもいいことです。
それよりも、もし私たちが事実ではなく、すべてイメージで動いて、判断して、喜んで、怒っているとしたら、どうでしょう。

「ちょっと待ってください。
さっき『当たり前』といったけど、私たちはイメージでなんて動いていないですよ。
そういうアフォな人もいるかもしれませんが、『事実』というものに従って動かなければ生活できませんよ」

ふーん。じゃ、ビタミン剤はなぜビタミン剤なのでしょうか?

「またまた、禅問答みたいなこと言っちゃって。
ビタミン剤はビタミンが入っているからビタミン剤なんでしょ?
それ以上でもそれ以下でもない(森さん風(笑))」

いいえ、ビタミン剤はお国が認める製薬メーカーがビタミン剤だと言っているからビタミン剤なんです。それ以上でもそれ以下でもない(笑)
だって、キミはビタミン「剤」ではなく、「ビタミン」というものを見たことがありますか?

「ビタミンなんて、電子顕微鏡でしか見ることができないんじゃないんですか?それを見ろなんて、また無茶言いますね、森さん。
ビタミン剤は酸っぱかったり、黄色い液体だから、それがビタミンでしょ?」

ふーん。そうしたら、もしビタミンが入っているかどうかに関わらず、製薬メーカーがビタミン入りドリンクの味を作っているとするとどうなる?
もっと言えば、ビタミンが入っていてもあまり酸っぱくなかったり黄色でないドリンクと、その半分以下のビタミン含有量しかないのに、酸っぱかったり真っ黄色の液体だったら?

「えっ?ビタミンって酸っぱくないんですか?」

いや、酸っぱいさ(…と思う)。でも、普通のドリンク剤に入っている分量くらいなら、私たちが考えているほど酸っぱくはない。

「え?それじゃあ、製薬メーカーはウソをついているんじゃ…?」

日本のメーカーの全部が雪印みたいな言い方をしてはいけません。
ウソではありません。だって、ちゃんと表示してあるビタミンの含有量が入っているんだもの。私達がビタミンだと思っていた酸っぱさや黄色がビタミンではなかったというだけです。

そんな例はたくさんあります。
例えばドリンク剤。
薬臭さの大半が香料で作られているから、味作りのプロセスは原料(薬効成分)とは別物。だって、薬くさくないと効いた気がしないでしょ?

飲んだ後に身体がカァっと熱くなる感じがするのも、効いた気がする成分をわざわざ入れているからです。もちろん、その成分があるなしで薬効は変わりません。

別の例もあります。
たばこの味のほとんどは、葉っぱではなくて香料で作られているものです。
それでは葉っぱの味でたばこを作るとどうなるか。生活者から「紙臭い」と言われてしまうのです。
実のところ、それは紙の燃えた味ではなくて、たばこの本当の味なのに。

そう、私たちはイメージで動いていると言っても過言ではないのです。
私の物言いに抵抗がありますか?
それならば、

「思いこみで動いていることが多い」

と言い換えても良いし、

「想像で動いている」

と言っても良い。

イメージで成功したり失敗する企業

イメージは生活者の理解内容だと言いました。
それでは、それが分かったところでどうなるのか。
企業はいくつもの方法でそれを利用したり、無視して失敗したりします。

最も分かりやすいのは、新製品の対応です。
例えば、ソニーは大ヒットパソコンVAIOを出す遙か以前に「SMC777」というパソコンを発売したことがあります。昭和54~55年あたりのことですから約20年前。パソコンの創世記です。もちろん8ビットCPU。

これが大失敗。まったくと言って良いほど売れませんでした。
性能が悪かったわけでは決してありません。むしろ、当時珍しかったOSという概念を採用し、CPMをベースとした先進的なパソコンです。しかも、普通の音楽用カセットテープにプログラムやデータを保存していた時代に、5インチ・フロッピーディスクを標準装備。
極めて先進的で意欲的なマシンでした。

では、なぜ売れなかったのか?
当時のソニーは生活者にとってトランジスタ・ラジオやテープレコーダーのメーカーだったからです。
高度な技術が必要なパソコンでは壊れてしまいそうなイメージしかなかったからです。

一方、カゴメは数年前に生トマトを売ったことがあります。
一部のデパートだけでの販売ですが、飛ぶように売れて即日完売しました。
なぜか。
カゴメはトマトジュースで有名なメーカーです。
だから、カゴメが作ったトマトは美味しそうな気がする。

もうひとつ、例を出しましょう。
日本が誇る世界的巨大企業、松下電器とトヨタが競争している分野が1つだけあります。
それは住宅です。
松下はバナホーム、トヨタはトヨタホームです。
しかし、それぞれの事業はバナホームが(まあ)成功、トヨタホームは苦戦しています。

なぜなのでしょうか。
両企業とも生活者の信頼は厚く、大企業ならではの安心感は抜群です。
両方とも一緒に失敗したり成功したりしているなら不思議に思うことはありませんが、明暗が分かれてしまっている。

理由は簡単です。
家には松下製品があふれかえっています。
電球、コンセント、照明器具など、「家」に関連した商品が多い。しかも、市場シェアはトップ。
一方のトヨタは家を連想するものは何もありません。

するとどうなるか。
松下が家を作れば住宅専業企業ほどではないにせよ、それなりにきちんとした住宅が建てられそうな気がする。
一方、クルマしか能がない(ように見える)トヨタでは、快適な住宅ができる気がしない。

それではどうすれば良かったのか。
もし、住宅に本気に進出するつもりなら、トヨタはなぜガレージから作らなかったのでしょうか。

「私たちはクルマの強さと弱さを良く知っています。
だから、日本一のガレージを作る自信があります」

もし、こんなコピーを広告で見かけたなら、そんな気になる人は多いでしょう。
住宅を作るのは、「ガレージならトヨタ」というイメージが出来上がってからでも遅くはなかったはずです。

ハンデがありながら、極めてうまくイメージをブリッジした(架け橋を架けた)のが花王のフロッピーディスクでした。
普通なら石けん、シャンプー屋さんがフロッピーを作ったところで、昔のソニーのようにバカにされるのがオチです。
しかし、彼らがやったのはそれを逆手に取ったのです。

「界面活性体技術を使った堅牢なフロッピーです」

界面活性体技術がどうフロッピーの品質に影響するのかはよく分かりませんが、花王がなぜフロッピーをわざわざ作り始めたのは分かった気になります。
しかも花王は界面活性体技術では凄そうだというのは、シャンプーや洗剤のトップメーカーであることから想像はつきます。

その結果、マニアやヘビーユーザーが買い始め、実際にエラー率が少ないことが分かり、クチコミで広がり、結局フロッピーのトップメーカーになってしまったのでした。
フロッピー文化がもっと長く続いていたら、花王はもっともっと儲かったことでしょう。

ちなみに、シストラットではこれを理論化して「レーダー理論」と名付けています。

「ウソ」を利用する?

先の例は商品開発と企業や商品に関することでした。
一方、他人に説明する時にもイメージはかなり役立ちます。
例えば、パソコン初心者に「フロッピーディスクの初期化」の説明をする時、詳しい人なら

「フロッピーにはセクターとレコードという概念があってね、FATというファイルアロケーションテーブルってのがあって…」

と延々と「正しい知識」を説明しようとします。
しかし、私の場合は「ウソ」の説明をします(笑)

「まずは、真っ白なノートを買ったと思いなさい。
まず文字を書きやすいように罫線を引きます。
次に、ページ番号を振る。
そして、どのページに何があるかが分かりやすいように、最初に目次のページをあらかじめ作っておく。
フロッピーの初期化っていうのは、これと同じ作業なんです」

ね?このウソ、分かりやすいでしょ?(笑)
これが分かると後の説明も楽です。

「で、マッキントッシュで初期化したフロッピーはウィンドウズでは読めないのは、罫線の本数が違うからです。
人間だって太い方が文字を書きやすいという人と、細い罫線が好きな人がいるのと同じです。

マックもウィンドウズも好き嫌いでその本数を決めているだけなんです (笑)
私たちはあらかじめ罫線が印刷してあるノートを買うことが多いですよね。
ページ番号を振ったり、目次を作るのが面倒だからです。
そう、あらかじめフォーマット済みのフロッピーが売られているのはそれと同じことなのです」

技術に詳しい人からは良く叱られました。
「森は大うそつきだ」と (笑)
しかし、この説明は分かりやすいことは確かです。

なぜか。
生活者が持っているイメージを借りて説明しているからです。
だから、想像がしやすい。
これと同じことをマーケティングでは応用します。

過去記事で紹介したソニーの音声付きデータディスクマンのコピーが良い例です。

「要は、しゃべる辞書です」

データディスクマンを使ったことがない人には「音声付き」といったってピンと来ません。また、音声がついているからといっても、何が良いのか分からない。
それを一々技術的な側面から説明するのではなく、一言で表現する。そのために、もっとも効率がよいのが生活者の持っているイメージに重ねて、そのイメージを利用することです。

「しゃべる辞書」なら、辞書という存在から来る

●豊富な情報量
●正確で、緻密な情報
●知的イメージ、身近イメージ
●一家に一冊

といったイメージが、わざわざメーカーが説明しなくても、一瞬のうちに連鎖反応的に生活者の頭の中で広がってくれる。

「大人のディズニーランド」
「パスポート・サイズ」

などなど、広告コピーだけでなくても使える考え方です。
専門用語ではこれを「ポジショニング」と呼んでいますが、コンサルタントや広告会社が勉強不足で、うろ覚えなのに勝手に想像して色々と使うものだから、本来の意味とは違うコトを指す場合が多いのが残念です。

「戦わずして負けてしまう」イメージの誤解

このようにイメージが「生活者の理解内容であり、生活者はすべてそれを元に行動、判断しているのだ」と認識することは、様々なメリットがあります。
企業も個人も「相手に自分の言いたいことを、効率よく理解してもらえる」からです。

一方、イメージをきちんと理解することは、実は裏の意味があります。
私が良く耳にするのは、こういうぼやきです。

「消費者なんて、きちんとした商品の内容なんかわかりゃしないんですよ。イメージに踊らされるだけ。
だから、うちの商品が他社のモノよりも品質が良いのに、あんな低レベルな競合商品にイメージで騙されてしまう。
まあ、うちと違って広告の作り方がうまいし、広告予算もあるからねえ…仕方がないけどさ」

彼らには分かる「良い性能」とされる客観的なものさしがあるのでしょう。
しかし、それらの言葉の大半は「俺の方が偉いんだ」という自己満足のせりふであることがほとんどです。
それが転じて「負け惜しみ」となる。

私がよく言う

「人を見下すことでしか、自分の価値を上げることができない可哀想な人たち」

です。

ここで大事なのは「品質を判断するのは、客観的事実が絶対唯一の尺度だ」という思いこみです。
企業は「負け惜しみ」や「相手(生活者や競合企業)のせいにする」姿勢では、永遠にメシは食えません。

ましてや「相手企業は広告の作り方がうまいが、うちは下手だから」で、自分をムリヤリ納得させるのでは、すでに「戦わずして負けている」ではありませんか。
こんな担当者がいる企業が市場で勝てるほどビジネスは甘くありません。

そして、彼らの唯一のより所は「事実ではない(事実はこちらの方が良い商品である)」です。
しかし、今までお話ししてきたように、「事実は生活者の頭の中にしかないのだ」と本当に理解できた時に、「自分で自分を慰め、負け惜しみを言うだけ」のビジネスの姿勢から抜け出せるのです。

下位企業が上位企業に勝てない理由は様々ですが、実はマーケティングとは直接関係ない「志気」が意外に大きな割合を占めることは知られていません。

「どうせ私をだますなら、だまし続けて欲しかった」(バーブ佐竹)

イメージは往々にして悪者扱いされることが多いものです。

「イメージ=虚構=うそっぱち=損すること」
「イメージ=虚構=知識不足=アホ」

という図式があるからです。

しかし、私たちが社会生活を営んでいく上でこれほど大事なモノもありません。
潤滑油になるからです。
その端的な例は狂牛病とウソの申請騒ぎの結果、業界が取った方法です。
牛一頭一頭に番号を付け、それをスーパー店頭で生活者がパソコンにデータを打ち込むと、その肉の出身が分かるというものです。

これなどは私に言わせると「偉大なる無駄遣い」以外の何者でもありません。
私たちは「和牛」だと思いこんで、何の疑問も湧かずに輸入肉を押し頂いていた。
考えたら、滑稽な話ですし、業界に騙された憤りは感じます。
しかし、個人的には「どうせ私をだますなら、騙し続けて欲しかった」と昔の歌謡曲の歌詞のような気分でもあります(「・・心変わりが切なくて、つもる想いの忍び泣き・・」なんて言うから、60代の壮年だと思われてしまう (^^;)。

なぜかって?
業界だけが損をしているわけではないからです。
確かにデータベースの開発費やデータ入力、パソコン設置費用などは、直接的には業界がコストを負担します。
だから、私たち生活者は「詫びを入れてもらっている」感覚があります。

しかし、私たち生活者は損をしていないのでしょうか。
例えば、業界が嘘をついていたことを知ってしまったがために、「疑う」「(再び騙されないように)防衛する」というエネルギーを使わざるを得なくなってしまった人は、小さな子供を抱えている主婦を中心に少なくはありません。

そんな人たちにとって、「心理的負担」や「警戒をすることによる、心理的エネルギーの増大」は、「損」以外の何者でもありません。

いや、もっと目に見えるものだってあります。
業界がデータベース費用などを負担するといったところで、元々、日本の畜産業界はそんなに裕福ではありません。
すると、その費用はどこから出るのか?
長期的には私たち生活者が支払う肉の価格に含まれてくるのは間違いありません。

あるいは、政府からの補助金で無理矢理、支えられるのでしょうか?
でもその補助金は私たちの税金から出ているのを忘れてはいけません。

このメルマガでは政治の話は一切するつもりはありません。
しかし、結果的に「私たち生活者は、謝ってもらえばそれで良い」というものではないことに気がつかなければなりません。
・・だから「だまし続けて欲しかった」のです。

そう、この例で分かることは

●イメージというのは「信用」と紙一重の概念だ(正確には、「信用は一種のイメージである」)
●イメージ(信用)は、人間が無駄なエネルギーを使わなくて済む、潤滑油としての社会的なメカニズムが働いている

ということです。

脳のメカニズム「ウソ」の効用

別なお話をしましょう。
「正確な情報を企業が提供すべきだ」
なんて議論もあります。しかし、これは程度問題です。
私たちはすべて「事実を知らなければならない」としたら、とんでもない生活を強いられることになってしまいます。
私のメルマガを見るために、皆さんはどうしますか?

●パソコンの電源を入れる
●メールソフトを立ち上げる
●受信をメニューから選ぶ
●私の記事をマウスで指定して開く

皆さんは「ソフトの立ち上げ方」さえ知っていれば良い訳です。
パソコンの電源を入れたら、パソコンはメモリチェックをして、各外部装置(モニタ、マウス、ハードディスク、モデムなど)がつながっているかどうかを確認して、ハードディスクのセクターの何番目からOSを読み込んで…なんてコトは考えなくても良いし、知る必要もない。

イメージはそんな「事実」を勉強する手間やエネルギーを省いてくれます。
たばこの味の中身を知ったところで、結果的には「おいしい、まずい」が最終判断のより所なのです。その過程を知ったとしても「分かったら分かったで面白いけど、それよりも知らなければいけない大事なことが他にもたくさんある」のです。

だって、
「たばこの香料にはソースと第2香料があって、そのうち…」なんて延々とやられても、私たち生活者は困るだけではないですか。
だから、香料がたばこの味だと思っていても何の支障もない。

企業だって、事情は同じです。
生活者にたった数文字の商品名を覚えてもらうだけでも広告に数億円もかかるのです。事実という複雑なことを生活者に伝えようとしたら、それだけで企業は倒産してしまいます(広告代理店は喜びますが(笑))。

人間がイメージで動くのは理由があります。
脳がそう命令しているからです。
それが効率的だからです。
以前も紹介しましたが、人間はある程度の年齢になると「想像」という能力が身に付くようになります。

例えば、赤ちゃんの目の前でおもちゃを箱に入れてしまうと、そのおもちゃがなくなったと思って大騒ぎをし、探しまくります。
年齢が上がると、その箱には「見えないけれど、おもちゃが入っているんだ」と理解(想像)できるようになる。

なぜなら、想像という能力がないと、一々、箱の中身を確認しておもちゃを見ないと安心できないからです。こんな面倒で無駄なことをしないように、人間の脳は「想像力」で無駄を省いていると言うわけです。

つまり、イメージという代物は、本来は商品を買ったり生活をする上で、ムリ・ムダ・ムラを排除するための「工夫」や「知恵」なのです。
それが「たまたま」事実を知ってしまうと騙された「気になる」だけの話です。

そして大事なのは、私たちは必ずしも「事実」だけで物事を判断している訳ではないということに他なりません。イメージという「事実だと思いこんでいる想像」が判断材料のかなりの部分を占める。

「イメージを制するモノは市場を制す」

私が良く言う言葉です。
ハリボテの企業イメージやブランドイメージとは違う視点でのイメージを把握すること。
これは、結局「生活者を知ること」とまったく同じ意味でもあるのです。
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