今回の記事には・・いろいろとまたひっかかる部分があったので、今回は手法を変えて、まず気になるところをお話ししてから感想なり書いていこうと思います。
一、
> 10年と数か月とでは40倍ものスピード差がある
案外(失礼!)、森さんってお若いみたいです。
後の方にも少しありましたが、「数」の実数値には2種類あって「2〜3」という答えと「5〜6」という答えがあります。(決して「2〜6」などと、丸めてしまっていいものではない、と思っています。) 歴史的(?)に言えば後者が正解。小さい頃に、そう習った記憶もあります。
しかし、この何年かの間に「数」の感覚が変わってきています。
ここ1ヶ月くらいの間の新聞にもそんな記載がありました。
若い人は数ヶ月なり数週間なり、「数」が2〜3を表すのに対し、年輩者は5〜6をイメージする・・・と。
10年は120ヶ月、40倍というと・・・森さんの数ヶ月は3ヶ月らしい。へぇ〜。
これが、まず最初の感想でした。
後半にレトリックは・・・特にあるとも思ほえず。(笑)
二、
> 同じ日を「お久しぶりです」「先日はどうも」という感覚
なぜか「絶対的」な尺度で見ていらっしゃる。
・・というところに、疑問を感じました。
「お久しぶり」はとっても相対的なものだと思うのです。
まず、高校の毎日顔をあわせるのが普通の同級生と、例えば同じ高校生にしても毎週土曜の夜に遊びに行くクラブで顔をあわせるだけの友達と・・・「久しぶり」の感覚は異なる筈です。
前者は土日会わないというくらいしか間隔をあけることが無いのが普通なので、一週間も会わなければ「お久しぶり」になることでしょうし、後者であれば、1回会えなかったら、つまり3週間顔を見ないくらいでようやく。
そして、そもそも身近なスタッフ以外には「毎日顔をあわせる」ということなど無いに近い高島礼子さんとしては(本当のところは知りませんが)・・尺度がはかれないから「先日は」という上手な日本語の使い方(逃げ方)をするのではないでしょうか?
その人の置かれた環境次第、です。
私自身、メーリングリストでやり取りをしていても、たまに発言する人には何も言いませんけど、ほとんど毎日のように発言する人が一週間以上も音沙汰無いと・・それは「おひさ(しぶり)!」と言いたくなります。
三、
> 懐かしい
これは、人に依ってというよりも、自分とその対象との「距離感」だなあ、などと感じます。
例えば、1年前に観た映画も、3〜4ヶ月前に一年ぶりに集まった仲間のことも、別に懐かしくもなんともありませんが、3〜4ヶ月前に、毎週通っていたそして今では未練も興味も無くなった「習い事」を思い出すと、「懐かしいなあ、そんな時もあったなあ」などと、30歳の私でも思います。
しつこいようですが、おまけに。
逆に私にはずっと気になっている3〜4ヶ月前の「ごめんね」の記事は、懐かしいでもなんでもなく、すぐ隣りに存在し続けています。
一昨日のことのように「アレなんだけど」と話題にあがります。(笑)
 ̄ ̄
さて、ここまで喉のつかえを出してしまえば大丈夫です。
以下落ち着いて感想など。
「境界線が曖昧な女性像」とありましたが、この頃思うに、縦横の分類が以前と異なってきたようです。
縦を生活環境であったり、価値観、興味対象であったりするものとし、横は年齢や所属・・とみなした時に、以前は横割であった文化伝播範囲が、縦割になってきているように思います。
情報の流通速度があがって全国どこに居ても誰でも、すぐに情報が入手できる状況が整ったことも要因の一つだと思いますが、いかに取捨選択するかというのに年齢的な熟達度があるとはいえ、なにを取捨選択するか、で一つのカテゴリーが作られるのではないか・・そんな気がします。
そして、そのカテゴリーの中においては年齢はあまり関係無くなってくる・・ということではないかな、と思うのです。言い換えれば、年齢によって興味チャネルを切り替える必要を世間が強いなくなってきたとも言えます。
20代30代女性が子供っぽくなった?
30代女性だから言うわけではありませんが、30代40代になっても、社会的に受け入れられるようになってきた(年齢でとやかく言われなくなってきた)、というのが一つ大きな要因でもありますが、似たところには似た人たちが集まる・・・簡単に言えば、類は友をということではないでしょうか?
縦割りが極分化されて出没する環境が区切られて・・
ヘンな言い方をすれば、あらゆる角度において相互に他人(他に興味を持つグループ)を見た時に、
【 頑張っている人たちはいつまでも頑張っているし
終わっている人たちは若い時から終わっている。 】 です。
やまんばファッション系に頑張るでも、キティちゃんに興味がないという点で終わっているであっても。
ジャニーズを親子揃って応援しに行くだとか、JUNONの読者層があがっただとか、そんな所にも端的に表れているような気がします。
女子高生らしい視点は確かにいつの時代にも在り続けますが、写真をトリミングしたり絵や文字を書き込んだり・・というその「ココロ」を研究して、その、縦割りに見た層へのマーケティングをするというのは・・それならセーラー服に関係無く、森さん!女子高生をはじめとして女性陣をもう少し研究できるのではないかしら?
森さんにとって、わるいカテゴリーの人たちじゃないようにも、
思うのですが。(笑)
【お返事】
> 案外(失礼!)、森さんってお若いみたいです。
> 10年は120ヶ月、40倍というと・・・森さんの数ヶ月は3ヶ月らしい。
> へぇ〜。
あはは。きちんと計算されていますね。
だからまりさんは怖いです。ごまかしがきかない (笑)
でも、そのとおりです。私の数ヶ月は3ヶ月くらいだし、それをベースに計算しました。
> なぜか「絶対的」な尺度で見ていらっしゃる。
> ・・というところに、疑問を感じました。
人間のコミュニケーションという側面で言えば、こういった時間概念は絶対的な尺度がないと、スムースな社会生活ができません。
例えば「しばらくお待ちください」が、1時間なのか5分なのかが共有されていなければ、店頭でトラブルが続出します。
(実は先日、ある百貨店で、売場がどこにあるかを聞こうとしたら、「しばらくお待ちください」と言われたまま20分待たされました。5分を過ぎたところで、「どこまで待たせるんだろう」とわざと待っていたからこそ分かったんですが
(笑) そうでなければ、とっくに「この百貨店は不親切だ」とその場を離れています。実際、後でその部長に聞いてみたら、メーカー派遣の店員で、自分の売場優先で、そういう客はほったらかしにして、去るのを待つのだそうです。確信犯ですね)
もちろん、同じ尺度を持つグループのま構成員同士なら問題はありません。
今回はまさに「女子高生」と「読者を含めた大人」の尺度が違うことで、不思議に思う現象がそうでなかったことを解説する記事なので、絶対的な尺度を持ってくるのは必然でした。
> 「お久しぶり」はとっても相対的なものだと思うのです。
他の方にも説明したのですが、「久しぶり」は、下のような公式があります(私のオリジナルです)
その方へのお返事をそのままコピーします。
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【一般的なケース】
久しぶり=(会わなかった期間 - 普段会っている間隔)
x (相手に対する好意度・関心度)
x(他人に対する依存度)
【若い人(女子高生など)に強く出るケース】
久しぶり=(会わなかった期間 - 普段会っている間隔)
x (相手に対する好意度・関心度)
x(他人に対する依存度)
x (人と接触していることに対する安心感
または接触していないことに対する不安感)
【注】この公式は概念的なものですので、日数などの単位は無視してください。
正確に表現しようとすれば、嫌いなヤツでもインパクトの強い相手は比較的「久しぶり」と感じるので、上の
「相手に対する好意度・関心度」は
「好意度・関心度の絶対値(嫌いはマイナスで表現する)」
にすべきですが、どんどんややこしくなるので、このあたりでいつもは止めています (^^;
また、久しぶりという感覚は他人への依存度が高い人ほど強めに感じます。
「寂しがり屋」と解釈しても結構ですが。
今回の時間感覚は、この公式全体に関わってくる係数のようなものです。
話を単純化するために、時間感覚でしか説明しませんでしたが、本来はこの「依存度」や「不安感」も影響してくるのです。
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ただ、今回の場合、「久しぶり」と感じることと、それを外部に言葉で表現すること、そして、その感覚によって生活者の行動が規定されることを論じています。
> これは、人に依ってというよりも、自分とその対象との「距離感」
> だなあ、などと感じます。
原則的にはそのとおりです。
でも、もしそうであれば、あのデータも、もっとばらけても良さそうですよね。
でも実際は一定の期間で収れんしている。
従って、距離感とはいっても、極端な差があるケースは実はそんなに多くないのです。
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> そして、そのカテゴリーの中においては年齢はあまり関係無くなっ
> てくる・・ということではないかな、と思うのです。
そのとおりです。だから、年齢ではなく価値観分析によるターゲット分けが有効になっています。
> 似たところには似た人たちが集まる・・・簡単に言えば、類は友を
> ということではないでしょうか?
それはちょっと違います。
つまり、昔(昭和40年代くらいまで)と今とで「子供っぽくなった大人」の数が同じで、「類が類を呼ぶ」行動を昔も今もするとすれば、ここまでリボンやキャラクターなどの売り上げが大人で占められることはないはずです。つまり、昔と今との違いがどこかにあるはずです。
(「昔も今もあるけど、森さんが知らなかっただけ」というのはナシですよ (笑))
「類が友を呼ぶ」では説明できない現象だと思っています。
> 写真をトリミングしたり絵や文字を書き込んだり・・というその
> 「ココロ」を研究して、その、縦割りに見た層へのマーケティング
> をするというのは・・それならセーラー服に関係無く、
> 森さん!女子高生をはじめとして女性陣をもう少し研究できるの
> ではないかしら?
ん?意味が良く分かりませんでした。
つまり、女子高生の行動は現在の大人の女性の行動と同じであって、女子高生単独で見るのは間違っている、ということなのかしら。
少なくとも、写真文化は20代(前半)女性にも波及していますが、トリミングや文字を書き込む現象は女子高生で止まっています。彼女たちの年齢特有の現象なのです。従って、その特有な現象を横割りにすることは、意味があることだと思っています。
ひとつ、誤解を避けるためにお話をしておきますが、本業では20年間価値観を通じて生活者を見てきました。だから、まりさんのいう「縦割り」賛同者です。しかし、だからこそ、逆に価値観の持つ限界も分かっています。
ファッションなどの感性的な分野では16才の女子高生の価値観は30才の女性と近い動きをすることは良くあります。しかし、特に人間関係などの「経験によって左右される」分野で、16才の女の子と30才の仕事を持つ女性が同じ価値観を持つことはまずあり得ません。
「行動について、昔より価値観が占める割合が多くなった」のは確かですが「すべて価値観によって行動が規定される」わけではないのです。