初めまして。いつも意見を拝見させていただいています。
最近の女性は「重い」気持ちを嫌がる、という記事を読んで思ったことを書きたいと思い、今こうして打っています。
本来ならばコンサルタントについての感想の方が望ましいということは十分承知しておりますが、あえて直接関係のない感想になってしまうこと先に断っておきたいと思います。
どうしてこの記事についての感想を書きたくなったかというと、私も世にいう若い女性であり、やはり「重い」気持ちを嫌がっている人間であるということにあります。それを痛感させられたのは、最近の人間関係でした。ある男性との関係が破綻し、それは私の相手の「重い」気持ちに耐えられなかったのが原因でした。
なぜ相手の気持ちを「重い」と感じてしまったのか。会話しているときに感じるギャップなども含まれるのでしょうが、特に相手が「拘束」していると私が思ってしまったときだと考えます。たとえば、ほかの異性の車に乗り込んではいけない、会っていない時間になにをしているのか、私がなんの悩みを持っているのか知りたい、など。
相手にとって当たり前の欲求であることは十分承知しています。しかし私にはそのどれも受け入れることはできませんでした。大学の帰り、友人の車なら、送ってくれるのなら乗るでしょう。会っていない時間、悩みを全てうち明ける気にはなりませんでした。一歩間違えばおもしろくない愚痴になることも知っているからです。
そうしているうちに、相手は私の性格を変えたいと言い出しました。うち明けないのは私に勇気がないから、そう考えたのでしょう。私にとってはそれが別れようと考える決定打になってしまいました。
延々と自分の人間関係を述べてしまいました。つまり「重い」気持ちというのは私にとって「拘束」を意味するのではないかと思ったのです。
女性は自由になった、と思います。私の母親の時代でさえ、女の人が仕事に生きるという選択はあまりなかった時代であったと聞いています。女の人がきちんと自立できる仕事は美容師などごく限られていたと聞かされたものです。それが、差別こそあれ、女性の選択肢は限りなく男性に近づいてきたと思います。もちろんこれは私が学術に身を置いているのでそう思うのかもしれませんが。
でも人付き合いとはそうそう変わっていくものではないと思います。その自由になってしまった女性と、変わることのない人付き合いのギャップが、「重い」気持ちを嫌がる女性が増えていっていることにつながっているのではないでしょうか。先ほど相手が性格を変えると言ったことに私が非常な反発を示したのも、性格は自分が選択し、育ててきたものという感覚が在ったからだと思います。大体性格が気に入らないのなら付き合わなければいいでしょう、というのが正直な気持ちでした。そして、そう思ってしまうほど相手に思い入れがなかったのも事実です。
自由にいきるということは、個人主義的で自立しているようにも見えますが、共同体主義からみれば、傲慢で自分勝手な生き方であると認識しています。そして、いくら個人主義を押し出しても、結局共同体からは離れることはできないことも。答えを模索する時期はもうすでにきているのかもしれません。
【お返事】
はじめまして。
メールありがとうございます。
大変興味深く読ませていただきました。
正に、山本様の意見に同感いたします。
「重い」という感情は、大半が恋愛の初期に発生するものですが、山本様のように途中からふつふつと沸き上がるケースも多々見受けられます。
そういう意味で言えば、極めて現在の若い方の持つ典型的な流れであり、場合によっては、悩みでもあります。
山本様のメールが、私の記事に対して反対しているのか、同感しているのか、はたまた、それらの尺度とはまったく別個にお話しをされているのかが、私の理解不足で把握しにくかったので、ピント外れのお返事であったら、申し訳ありません。
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ひとつ感じたのは、記事中の「責任」という単語と、山本様のおっしゃる「束縛」は極めて近い概念だということです。
特に、
> 相手にとって当たり前の欲求であることは十分承知しています。
と、山本様が理解されていることが、「(受け入れることができない) 責任」=「束縛」の図式を明確にしています。
そして、悲劇は「重い」という概念に対して、温度差が個々人にある、という事実です。
これが、ビジネスだと「従来の概念で動こうとする企業」vs「若い消費者」という図式であり、山本様の例だと「従来の概念で動こうとする男性」vs「山本様」となってしまうのではないか、と思います。
正に、山本様が指摘されている「ギャップ」です。
(> でも人付き合いとはそうそう変わっていくものではないと思います。その自由に)
(>なってしまった女性と、変わることのない人付き合いのギャップが、「重い」気持ち)
(>を嫌がる女性が増えていっていることにつながっているのではないでしょうか)
もちろん、これは「男性」vs「女性」という単軸概念ではありません。女性だけに特有のものではありません。女性の一途な気持ちに応えることができない男性は、当然「重い」と感じるのでしょうから。
ただ、一般的に、山本様が指摘されたように、女性の社会進出とともに、自我を殺すことが少なくなりました。男性以上にその変化が激しいのは確かです。従って、目立つ変化であることは間違いのないことです。
個人的に言えば、この傾向自体には賛成です。
「女性だから、自我を殺さなくてはいけない」
「『自分の性格を変える』と主張する相手には感謝しなければならない」
どう考えても、その論理に首を捻らざるを得ません。
相手に対する人間的な最低限のマナーは必要ですが、それ以上の要求を飲む必要はどこにもないのです。
ましてや、「女性だから」「女のクセに」などというフレーズには反発すら覚えます。同じ男性として、それは捨てぜりふ、あるいは、相手をシャットアウトする方便に過ぎないことが良く分かるからです。女性である前に人間であること、という大前提が理解できない人と「お友達」になるつもりはまったくありません。
もし、そこに悲劇があるとすれば、「つき合ってから相手の価値観の本当がわかってしまった」なのか、「この人はどうも、そういう価値観を持っていそうだから、初めから距離を置いておこう」なのかの違いでしょう。
そして、若い方はまだまだ好奇心や洞察力、そして、学習という観点から「とりあえず、つき合って、見てみよう」という猶予期間があるだけに、前者の結論になる機会が多くなる、とも言えます。
山本様のお母さまや私の時代とは、「とりあえず」の観点が違うことが「重い」を頻繁に感じさせているのでしよう。逆に言えば、それだけ、現在の若い方
(女性) の許容量が広くなって事を意味しているのですが。
そこには、良い悪いの尺度はありません。どちらを選んでも正解です。
ただ、前者を選ぶ人が多くなればなるほど、「重い」という言葉が、色々な意味で重要なキーワードになってくる、というだけです
(これが、公的なキーワードになると問題が出るのは、記事で主張しているとおりですが)。
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> 自由にいきるということは、個人主義的で自立しているようにも見えますが、共同
>体主義からみれば、傲慢で自分勝手な生き方であると認識しています。そして、いく
>ら個人主義を押し出しても、結局共同体からは離れることはできないことも。
社会の共同体主義そのものが変化していくのではないか、と思っています。
従って、個人個人は極めて個人主義的ですが、共同体を成立させるために、技術が発達する。つまり、社交術が個人の価値観とは別個に発展していくのではないか、と考えています。アメリカがこういった発展を遂げています。表面上でのグループ
(場合によっては、恋人、夫婦すら) のつき合いと、個人的なつき合いはまったく異なります。
あえて言えば、アメリカ人は卵の黄身が鋼鉄でできていて、そこに入り込むのはまず不可能。ただし、白身に当たる部分は非常に柔らかく、その人の世界に入っていける気がする。一方、日本人は、卵の殻はそれなりに固いけれど、それさえ破ってしまえば、一気に中心までズルズルっと入っていける。そんなイメージです。
現在の日本の若い人たちは、アメリカタイプに近づいています。プリクラ等の物的媒体を必要としているのは、まだ、社交術が未熟なためですが、確実に「自分の世界を守る」個人主義へと進んでいっています。
「重い」というキーワードは、そういう観点から見ると、発展途中の社交術が故の一時的な発熱で、知恵熱のようなものだと私は捉えています
(もちろん、発展途中のものが完成するまでに、10年以上の年月は必要でしょうが)。
唯一心配なのが、自由の裏には「責任」がある、という意識が日本ではまだ一部でしか発芽していないことです。「自分の言葉や行動には責任を持つ」つまり「そんなつもりではなかった」や「自分のことは棚に上げて」という姿勢はアメリカでは通用しない、ということです。これさえ、ちゃんとできれば、本当の意味で個人主義が日本に定着するでしょう。
誤解がないようにつけ加えさせて頂ければ、山本様がそうだと言っているわけではありません。山本様の文章からはそんなことは一言も感じることができませんから。むしろ、逆に山本様はそのことをわかっていらっしゃる、というサインが見えかくれしているほどです。
一部では、既にその個人主義が未完成ではあるものの、きっちりと守られる、あるいは許容される社会が存在するのも確かです。インターネットはその最たるものでしょう。個人的に6〜7年前から
Nifty を初めとするネット社会に友人や同好の趣味のグループとのつき合いがありますが、彼らは正にそのことを享受しています。
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大変申し訳ありません。
主旨がぼやけてしまい、取り留めのない話になってしまいました。
コンサルタントとしてマクロ的な視点からお話しをするのか、当社はアルバイトを含め、すべて20代の女性ばかりなので相談を受けることも多く、その観点からのお話しをすべきなのかが混在してしまい、中途半端になってしまったからです。
ご意見等ありましたら、お気軽にご連絡下さい。
はじめまして。さやかと申します。とても興味深くマガジンを拝見しました。私自身、マーケティング部門で働いておりますので、思わずうなずいてしまう箇所がたくさんありました。(その一方で入社2年目でこういう感覚が染み着いてしまったことに苦笑していますが。)
メールをお送りしようと思った理由は「メールマガジンの楽しみ方」のなかで「偉大な平凡人」との表現に(勝手に)励まされたからです。
私はマーケティングの仕事をするようになって実質1年半になります。少ないなりにいろんな人の話を聞いたり、本を読んで仕事に臨む態度として「透明な自分であること」を心がけるようにしています。自分が面白いと思うことでは駄目だというのが、一生懸命考えた結論です。
ところが会社では「自分がほしいと思うものを企画しろ」と言われ、社外の研究会で上記のようなことを発言したら「なに考えてるんだ、お前」みたいな顔をされてしまい社会人の最初からくじけそうになっていました。
本当はまだ勘違いをしている部分もあって、回りの人が言っていることが本質であるところもあるとは思うのですが、自分で見つけた方向に少し自信がもてました。
ありがとうございます。
これからも楽しみにしております。それでは
【お返事】
大丈夫です。さやかさんは間違っていません。
また、会社の方がおっしゃっていることも間違っていません。
ただ、社外の研究会の方々は間違っています。
最も重要なのは「自分を如何に柔軟にするか」です。正に、さやかさんのおっしゃる「透明な自分であること」です。
社外の研究会の方々は「こうでなければならない」という見方に固まっているようです。これが最も危険な状態です。
「自分がほしいと思うものを企画しろ」は、1つのやり方です。
はっきり言ってしまえば、企画やマーケティングの経験の少ない人でも、一定の水準の企画ができる「手っ取り早い方法」なのです。
さやかさんがどのような会社にお勤めなのかはわかりませんが、長期間じっくりと成長し、(企業内)
マーケティングのプロとしてやっていくのであれば、良い方法とは言えませんが、「即戦力」として「売れる商品」を作るのであれば、それなりに有効です。
なんといっても、「自分が欲しいもの」ですから、細部にわたってこだわりが出るし、それが消費者の心を捉えるのです。手法として注目を浴びるのは当然です。
ただ、この方法には欠点があります。
基本的なマーケティングをそんなに勉強しなくても一定の成果が上げられるので、「自分の欲しいもの」の感覚が消費者とずれはじめると、歯止めが利かなくなる、という点です。そして、それは普通の方では意外に早く訪れます。つまり、ヒット商品の1つや2つは入社2-3年で作れるけれど、その後は感覚がずれまくっているので、何を考えても当たらない、という状況になります。
実際、プラスのチームデミをはじめ、様々な「自分の欲しいもの企画」でヒットを上げた企業がすべて途中で失速しているのです。
もっと言えば、デザイナーのような感性を主体とする業界がこの典型です。彼らは「自分が欲しいもの」でデザインを決めているわけではありませんが、「自分の世界」でデザインを表現します。結局、彼らは年を取るごとにテクニックで感性をカバーしますから、ある程度までの年齢までは良いデザインを作りますが、35才を過ぎたあたりから、名声や経営感覚がないとデザイナーとしてやっていけなくなってしまうのです。
ちなみに、私の場合、自分の感性が一般生活者とかなりズレまくっていたので、メーカー時代からそれをイヤというほど味わいました。例えば、自分の好きなパッケージデザインは、調査結果ではボロボロ、メタメタの評価なのです。何10ものブランドを開発しましたが、1つとして一致したことがありませんでした。しかも、女性向けブランドの時には、地の底に打ちのめされる程、感覚がずれているのがわかりました。
逆に、「自分の好きなのはこれ、でも、調査ではこれとこれが1番、2番だろうな」という予想は異常に得意になりました。広告開発でも、代理店のプロデューサーやディレクターと予想競争をやって負けたことがありませんでした。
喜んで良いのか、悲しむべきなのかはわかりませんが、少なくとも自分の進むべき道は人生の早いうちにはっきりしたのは幸運というべきなのでしょう。
さて、さやかさんの目指すところと会社が要求しているところに若干のギャップがありそうです。
でも、良いではないですか。さやかさんはさやかさんの方法でやっていけば。
さやかさんなら大丈夫だと思いますが、1つだけ、余計なことをつけ加えさせて頂ければ、「透明な自分であること」や「偉大なる平凡人」は、現状認識フェーズおよび確認ステップのみで有効な姿勢だということです。
マーケティングは簡単に言えば、現状認識フェーズ、計画立案フェーズそして計画実行フェーズがあります。そして、それぞれに確認ステップが含まれます。
そのすべてにおいて消費者と同じ感覚だと「消費者ニーズに迎合した」商品しか生まれません。「消費者ニーズをくみ取った商品開発」のためには、何らかの工夫が必要です。私はそれを「どんでん返し」と呼んでいます。結末が判っている映画はつまらないけど、ラストのどんでん返しが効いているものは印象に残ります。
マーケティング、特に商品開発はそのどんでん返しが極めて重要になります。そして、それは、「消費者と同じ感覚」では生まれません。ただ、そのどんでん返しの案を評価するには「透明な自分であること」や「偉大なる平凡人」が再び必要になってくるのです。
失礼ですが、さやかさん入社2年目にしては、かなりしっかりした方のようです。
どんどん色々なものを吸収して成長して下さい。そして、今の自分にもっと自信を持って頂ければ、と思います。
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>働いておりますので、思わずうなずいてしまう箇所が
>たくさんありました。(その一方で入社2年目でこういう
>感覚が染み着いてしまったことに苦笑していますが。)
さやかさんなら、中級者・上級者向けの他のページも楽しんで頂けるのではないでしょうか。
一度、こちらのページにも遊びに来て下さい。
http://www.systrat.co.jp/theory/theory.html