Gショックがようやく落ち着き始めました。
一部のモデルを除き、入手も楽になり、騒がれることも少なくなりました。
以前のスウォッチを彷彿させるブームでした。
バブルの頃はロレックスが人気だったことは記憶に新しいブームです。
猫も杓子もロレックス。一時はコギャルまでロレックスをつけはじめて、さすがにヒヤっとしたものですが、単価が高いためクリエータ、OLさんや風俗嬢のアイテムにとどまりました。
日本人には時計好きが多いのでしょうか。
私もお会いしたことがある雑誌界の重鎮、松山猛さん(私の年代だと元フォーククルセイダーズの松山さんと言ったほうが判りやすいかも知れません)は、時計の話をし始めると止まらなくなってしまうほど時計好きです。
また、私の友人も古い時計が大好きで、駅前の古いタイプの時計屋を見つけるとふらっと入っていきます。店主に「修理に出したのだけれど引き取ってこない」腕時計を譲ってもらうよう交渉するのです。そうして集めた時計は300個を下らないといいます。
一方で、腕時計は道端で売っている1,000円時計しか買わない層もいます。
3年前の40才までの私がそうでした。
1,000円時計や東南アジアで売っているニセモノ時計を値切って、5個くらい日本に持ち帰ります。壊れる度にそのストックから新しいものを付け替えます。
もちろん、こんな例はまれです。
確実に存在しますが両極端です。
中庸で言えば、まず、いくつかの腕時計をその場のケースに応じて使い分ける人たちがいます。その中には高いものもあれば数1,000円のものもある、といった具合です。
これは女性に多いタイプです。
また、男性に多いタイプは気に入った1つの腕時計を数年間使い続け、壊れたら買い換える人たちです。
高いのから安いのまで、機能中心のものからファッション中心のものまで、カジュアルからエレガントまで。
腕時計はバリエーションも豊かで、ブームもあり、生活者の関心も総じて高い。
しかも、世界市場でも日本の時計は高性能として評価が高い。
その中でも主役はいわずと知れたセイコーとシチズンです。両社、売上げは立派なものです。
調べてみると、完成品ではGショックのカシオが約5,600万個を売り上げ、トップになってしまいましたが、ムーブメント(時計の駆動部のこと。これを他のメーカーに部品として卸している)を含めた生産数となるとシチズンが3億1,080万個、セイコーが2億9,200万個、カシオが5,600万個と、今でもセイコーとシチズンは台数ベースで日本いや世界の1位、2位のメーカーです。
周囲に聞いてみても
という声が上がります。企業イメージは抜群に良いままです。
一部こんな声があることは確かです。
女性が多いですが、男性の中にも少なからず存在します。性差は顕著ではありません。
売れていれば問題ありません。
デザインの領域は元々「日本人が作った」というだけで、評価が下がるのが当たり前ですから、気に止めておけば良い程度です。
だから時計業界は素晴らしい産業です。
このメールマガジンでメスを入れるのは心が痛むくらいです。
「今度のテーマは時計だよ」と友人に言ったら、「え〜?何でぇ?」とびっくりされてしまいました。ある人は「あっ、『褒めちぎり第2弾』でしょう」とまで言われてしまいました(笑)
こんな順調な産業でもマーケティングの側面から見ると砂上の楼閣がはっきりします。
今回はその中でも皆さんに身近な日本の専業メーカーに焦点を当てることにします。
セイコーとシチズンです。
生活者にとって、何の問題もないように見える企業も、裏を返せば危ない道をまっしぐらに突き進んでいる。そんな事例が今回のテーマです。
メスをいきなり入れる前に、今の時計業界が繁栄を遂げた理由を簡単におさらいしましょう。
海外で「安かろう、悪かろう」の代表イメージだった日本製品。それが、次々と世界中の評価を高めた時期がありました。1960から1970年代です。
その中でも早くから評価が高かったのがセイコーです。
オリンピックに公式時計として採用されたことは「時を世界一正確に刻む企業」として、日本の誇りでした。
その後も単に「時を正確に刻む」だけでなく、自動巻きやクォーツなど「手間をかけずに正確に」「長期の間も正確に」と、「正確」のコンセプトを次々に推し進めた技術革新を世に送り出しました。
セイコーとシチズンは手軽に買える価格のクロック(腕時計に対する置き時計の総称)を市場に次々に投入。また、ムーブメントを外販することで、それを買って様々な時計を作る中小メーカーの活躍を促したのです。
時計は瞬く間のうちに私たちの生活の中に溶け込んでいきました。
今では、クーラーやステレオのリモコン、携帯電話やパソコンまで、私たちが接するあらゆる場所に「時を教えてくれるモノ」が待ち受けています。
さて、時計が行き渡り、時計以外のものも「時を告げる」役目を果たすことになると、これ以上時計は売れなくなります。飽和状態です。
そこで、セイコーが大ばくちに出ました。
「なぜ、時計も着替えないの」キャンペーンです。
若い読者の方々はご存じないと思いますが、20年前のこのキャンペーンまでは、腕時計は1つしか持っていない生活者が大半でした。
「時を知る道具」は1個で十分です。
ただでさえ安くない商品です。
時計を手に入れるのは入学祝いや就職祝いの時だけです。
壊れても買い換えるという発想はありません。修理をして使い続けます。
2個3個持つなどという発想自体が生活者にはありませんでした。
それをセイコーが変えたのです。
「洋服を着替えるように時計も着替えよう」
「時を知る道具」なら1つしか必要ありませんが、「ファッション」「アクセサリー」なら話は別です。経済的な話を別にすれば何個あっても困ることはありません。
マーケティング用語でいえば「ポジショニングの変更」です。
これが大当たり。
ほぼ国民全員に行き渡った時計という商品を複数個持たせることによって、市場を拡大したのです。見事な戦略です。
セイコーのように市場シェアの40%以上を占める企業は、競合企業をいじめることで成長しようとしても意味がありません。それよりも、他の市場に喧嘩をふっかけ、そこから売上げを奪った方がよほど効果が高いのです。
時計はファッション小物、アクセサリー市場にまんまと食い込んだのです。
では私は何が不満なのか。
今のセイコーやシチズンは「つまんない企業」なのです。
もちろんこのメールマガジンでテーマにする限り、個人的な感情ではありません。
マーケティングの観点から見る「つまんない企業」とはどんなものなのか。これを説明することが今回の私の役割です。
それが、いつの間にか何の音沙汰もない企業になっていました。
私はセイコーに関するニュースをついぞここ10年間耳にしたことがありません。
今でこそ松たか子の広告が目立ちますが、それまでのセイコーの広告を思い出すことはありません。
「時計はアクセサリーに勝てない」とはどういうことか。
アクセサリーとして買われる、ということはアクセサリーに対する生活者の「常識」に巻き込まれることを意味します。
生活者のアクセサリー市場での代表的な「常識」は次のようなものです。
「安いものか一生モノ」の2極分化については、時計メーカーが不利です。
というのは、時計よりもアクセサリー(この場合は特に宝飾品)の方が価格の幅が広いからです。
100万円の時計は成金趣味で嫌味だけど、100万円のダイヤの指輪ならちょっとした小金持ちなら持っていてもおかしくありません。アクセサリーで安いモノなら300円のブレスレットだってあります。
「高いものは高そうに見えて当たり前」は実はかなり複雑な問題です。
宝飾品は端から見て「高そう」というのが判りやすい商品です。
金や宝石などがふんだんに使われていれば、まず高そうに見えます。
また、大きいダイヤモンドは小さいダイヤモンドよりも高く見えます。
「多い・少ない」「大きい・小さい」が判断基準です。
一方、時計は大きければ高いというわけでもなければ、金色だから高い訳でもありません。また、「時を2倍正確に刻む」時計は、2倍の値段かというとそうでもありません。
かくして、アクセサリー市場に打って出たセイコーは初戦こそ成功しましたが、じわじわと自分の首を締める結果となりました。
では、時計の分野で彼らは何らかの工夫をしているのか?
同じような性質を持った商品はいくらでも存在します。
例えば録音をする機械です。
音が保存できて再生できれば、あのステレオと呼ばれる銀色の箱はいりません。
だから、オープンリールからカセットテープ、そしてMDと録音する媒体の進化とともに、再生する機械も小型化しました。
もう一度言います。
時計は本来「邪魔」な存在です。