駅。
主に首都圏で親しまれている空間です。
かつては首都圏や大都市以外の街でも、駅が出来上がることは産業の発展に非常に大事なことであり、政治家の大きな活躍(暗躍?)の場でした。
しかし、クルマの発達と普及によって、地方都市では公共機関である鉄道自体が使われなくなって久しくなりました。
今や通勤はクルマで・・という家庭が多いからです。
それでも、首都圏や大都市圏内では鉄道が主な移動機関であり、そこに住む限り、私たちは「駅」という空間と否応なしにつきあわなければなりません。
その駅が徐々にではありますが、変わってきました。
単なる売店だけでなく、写真フィルムのDPEサービスは古くからあり、最近ではコンビニや専門店まで出現し、渋谷の「ランキン・ランキン」のように新コンセプトのコンビニ・スタイル雑貨ショップも出現する。
また、飲食も変わりました。
新宿駅南口構内にあった古いタイプの立ち飲みコーヒー店の代わりにドトールが出現。東京駅新幹線ホームのバカ高い弁当屋に加えて、コンビニスタイルの弁当売場コーナーが設置される。
とうとう渋谷駅にはユニクロが出店。
ネットからダウンロードしてMDにコピーできる自動販売機が出現したと思ったら、ネットで注文した書籍やCDをJR駅で受け取れる取り次ぎサービスも開始されました。
この分では、銀行のATMや食品スーパーのような店まで出てきても、何ら不思議はありません。
駅は便利になりました。
競争がないために、まずい立ち食いそばにつきあう機会が減りました。
ちょっとしたコンビニで買える品物も「通勤のついでに」手に入るようになり、時間がもったいない私のような人間には大歓迎の変化です。
この変化の裏には鉄道会社の努力があります。
「駅という空間を快適に」といった趣旨のポスターを何回も見ました。彼らは意図的に駅に付帯するサービスを改善しようと一生懸命です。
鉄道会社は収益が上げられる。私たちは便利になる。
こんな良いことはありません。
しかし、どうにも腑に落ちないのです。
マーケティングの観点から見れば、鉄道会社が金を儲けることには全く異存はありませんし、駅という空間に付加価値を見いだすことも問題なしです。
また、小売り商売の基本である「人が集まる場所」を何もせずに放置することほどもったいない話はありません。
ましてや、「駅」という空間は「半軟禁状態」です。一旦切符を買って入ると、なかなか出ることができない。その「タコ部屋」空間が少しでも快適になるのなら、利用者のニーズにも当てはまるでしょう。
しかし・・しかしなのです。
何かが根本的にスッキリしないのです。
今回は、そのスッキリしない私の疑問を解いてみよう、というのがテーマです。
かっこよくいえば、
ですが、森流にいえば、
です。あっ、2ちゃんねる風? (笑)
駅が身近でない地域の読者の方、今回はごめんなさいです。
一時期、海外のメディアが日本を紹介する時に、お約束のように流れた映像が朝のラッシュアワーの情景でした。
鉄の箱から次々と、しかし整然とはき出される「東京人」という生物が、さながらレミングスのようにどどどっと流れていく。
と昔は思っていました。
その後、人口30万人程度のアメリカの田舎に住んでみて、納得した覚えがあります。30万人といえば岡山市の半分の人口ですが、面積は3〜4倍もあるのですから、あんなに人が密集する情景なんて、数年に1回開催される移動式遊園地やサーカスくらいしかお目にかかれません。
また、私たちが中国上海市のシーンをテレビで見ると、必ずといって良いほど自転車に乗った大量の人たちの映像が使われているのと同じような感覚なのでしょう。
だからでしょうか。
と聞くと、大抵の人は
と答えます。
私はそれに追い打ちをかけます。
が代表的なものでした。
ん?よくよく見ると、5つの要素のうち「音声」が4つも占めています。
私の学生時代からのドイツ人の友人です。彼は年に数回日本に訪れるだけでなく、2年ほど日本に住んでいたことがあるだけに事情通です。
駅のうるささは、彼だけでなく日本語が分からない外国人も多く指摘することです。
ふと、気になって、周囲の日本人にたずねてみました。
代表的な意見でした。
あれれ?日本人とドイツ人とで音に対する敏感さが違うのでしょうか。
地方への出張が多いビジネスマンの友人です。
これでピンと来ました。
先ほど「駅なんてうるさくない」といっていた友人たちに、再度質問です。
さて、最後の仕上げです。
この一連の質問をした友人たちに、1週間後に再び質問をします。
一連の質問は誘導ではありません。
今まで何とも思っていなかった感覚が、あるきっかけで「正常に戻る」。
よくあることです。
心理学に「カクテルパーティ効果」という理論があります。
パーティで周囲がざわついているのに、自分の会話相手の声はきちんと聞こえる能力が人間には備わっているというものです。
別な言い方をすれば、人間には自分の興味があるものとないもので、それらを選別する聴覚の力があるのです。
自分の名前を言われると敏感になり、他人の噂などには馬耳東風という輩がいるのはそのためです。
また、ガード下に住むことができるようになるのも、その能力のおかげです。
どうも我々は駅の騒音に関して言えば、「慣れさせられている」ようです。
誰にって?もちろん鉄道会社に、です。
本来ならば不快なハズの音声や騒音。
私たちにとって快適でも何でもない駅ホーム。
それなのに「駅ライフを充実」なんて、どこの口から言えるのでしょうか。
騒音のように、私たちが知らない内に「当たり前」だと思わされている事柄なんてもっともっとありそうです。
1つは簡単に見つかります。
駅ホームの危険性です。
私たちが都会で暮らす中で、最も危険な場所はどこか?
大抵の人からは
「(高速)道路」「工事現場」といった回答が帰ってきます。
確かに交通事故は通行人にとって怖いものです。また、普段気を使わない上空から鉄柱が落下してきたのではたまりません。
そう回答する気持ちも分からないではありません。
ちなみに、首都圏の場合、私鉄沿線駅ではチラホラとホームの柵を見かけます。たまに使う東急東横線の武蔵小杉駅には立派な自動ドア式の柵が設置されています。
地方では新幹線の駅ホームにも柵がある場合があります。
さて、駅という施設はハードウェアだけでは成り立ちません。
駅員を中心とした人的機能がないと、私たちはスムースに駅を利用できません。
もとい。駅に入って、駅を出ることすらかないません。
文字に書くと大したことがないように見えますが、それを駅のアナウンスで不機嫌そうに(ケンカをふっかけるように)大声でがなり立てる。
東京に住んでいると、こんな光景を当たり前のように遭遇します。
結局のところ、根っこはすべて同じなのです。
顧客を顧客と思っていない。
いや、人を人と思っていない。
過去記事を読んだある鉄道会社の現場の職員の方がメールが来たことがあります。
「私たちはあの大量の人を見続けて、客を人と思う感覚がなくなっています」