さあ、食欲の秋です。
行楽の秋です。
哀愁の秋です。
夏休みに金を使いすぎた秋です。
私の誕生日がある秋です・・ん?
四季それぞれに良さがある日本の気候ですが、その中でも春に続いて人気が高いのが秋です。
過ごしやすい気候が最大の理由ですが、日本人にしか判らない第6の味覚、「旨み」が最大限ににじみ出る食材が揃うのが秋という季節だからでもあります。
また、紅葉という見た目にも素晴らしい環境が整うのも秋ならではの現象です。
・・といっても、春は春ならではの、冬は冬ならではの現象があるのですから、説得力はまったくありませんが (笑)
ところで、今年の秋の3連休をどう過ごすかという調査では、「旅行」が37%でトップ。「趣味」や「休養」を押さえて一番人気でした(対象は子供を持つ主婦。日本旅行業協会)。ちなみに、国内旅行は実際に予定がある人としてみたい人を合わせて68%。海外旅行は18%と旅行人気はまだまだ高いものがあります。
とはいうものの、旅行業界そのものは不調です。海外旅行はようやく6カ月連続で前年を上回りましたが、国内旅行は2000年7月で対前年比5.2%の減少。まだまだ不況の影響から脱出できていません。
業界第7位のHISは国内旅行で対前年比203.2%と大幅な伸びを示しましたが、これは例外。
国内旅行市場で26.8%を占めて1位のJTBで4.3%の減少。
シェア13.8%で2位の近畿日本ツーリストで4.6%減少。
現在は中国からの観光客解禁間近で期待を膨らませているものの、予定が大幅にズレ、その期待感もしぼみがちといった状態です。
しかし、日本人は旅好きだという見方には異論を唱える人はいないでしょう。
では昔からそうだったかというと、必ずしもそうではありません。
例えば、平安時代は旅行をする人がほとんどいなかったため、宿屋すら存在していませんでした。
当時は旅をするのは貴族などの上流階級と相場が決まっていましたから、普通の農村の民家に泊まらせてもらっていました。その際、夜は寂しいだろうからと、自分の嫁や娘を添い寝させるのが慣例でした。
翌朝、客の評価が高いとその村で自慢になる。農耕民族で血が濃くなりがちな民族の生活の知恵です。
宿屋が本格的に普及したのは江戸時代です。
政治が安定したために貨幣経済が発達し、全国の産物取引が活発になったのがその理由です。従って、旅行といっても今でいう出張のようなもので、商人が主流でした。
もちろん忘れてはいけないのは参勤交代の大名や武士たちの旅行。
庶民はといえば、江戸時代(文政13年。1830年)には500万人という日本全国の6分の1がお伊勢参りをした記録があるといわれています。
しかし一方で、1848年に栃木県からお伊勢参りをした人の記録が残っています。それによると、農閑期の約80日の旅行で、費用が14,931文。現在の貨幣価値換算で約100万円というから、そうおいそれと気軽に出かけられる期間と金額ではないはずです。
ところで、そういった街道の行く先である大都市の関所には、旅の疲れを癒す遊郭があったものです。有名なところでは吉原、新宿、品川宿がそれに当たります。実は「宿」がついている地名は遊郭であったことが多いのです。
もっとも、遊郭の役目は旅先の疲れを癒すだけではありませんでした。
土地の大名にとっては間者つまりスパイを足止めし、事前にその存在を発見するためのものでもありました。
従って、遊郭の経営者達は間者(スパイ)らしき人物を見つけたらそれを報告する代わりに、治外法権という権利を獲得したのです。
道中では「飯盛り女」と呼ばれた、宿屋の仲居さんのような存在が実質的な遊女でした。
関所にたどり着かずとも女性のサービスが受けられるのが人気になり、飯盛り宿という飯盛り女ばかりを集めた宿屋まで出現する始末。
当時の幕府は当初、飯盛り女を全面禁止としていたのですが、有名無実化していたために、とうとう徳川綱吉(だったと記憶しています)の時代には、1軒の宿には飯盛り女2人までという制限が加えられ、現状追認の決定まで出された始末でした。もちろん、効果はゼロ (笑)
旅行が庶民にとって一般的になったのは、移動手段が身近になったことと無縁ではありませんでした。蒸気機関車という大発明が実用化された明治時代がその発端です。
蒸気機関車も当初は人を運ぶのが主目的ではありません。商材を流通させるための手段が人間にも応用されたのが実状です。
従って、明治時代とはいっても、すぐに民衆に旅行という習慣が広がった訳ではありません。
日本人に旅行という新習慣を広めた立役者。それは旅行代理店という新しいビジネスでした。
旅行に慣れていない日本人に様々な行楽を紹介、提案し、宿屋の手配をはじめとして旅行に関する面倒な手続きを代行する。
社員旅行、修学旅行などの団体旅行を計画することで、当時の日本人が旅というものに触れるきっかけを作ったのでした。
一般に普及したのは東京オリンピックや万博が開催された1970年からです。
日本人の旅行を楽しむ教師役として活躍した旅行代理店でしたが、長引く平成不況のために元気がなくなっています。
今年はようやく海外旅行が復調の兆しを見せていますが、国内旅行は不調のままです。
そんな旅行代理店に今回はスポットを当てました。
ところで、今回は国内外旅行を特に分けていません。構造は似たようなものだからです。ご了承下さい。
印刷会社や広告代理店のチラシ制作を担当している人に会うと、1回は必ず飛び出る愚痴です。
私もそのあたりを良く知っているので、初めて会う人には話題提供のために
と水を向けると、10人中10人が見事に振った話題に飛びついてくれます。
一体、何が大変なのか。
両方に共通しているのが、締め切りぎりぎりまでチラシの内容が決まらない。あるいは、締め切りぎりぎりまで修正、修正また修正の嵐だという点です。
ある人は、最終締め切り日というのに1日で4回も修正が入ったといって泣いていました。
原因は何か。
組織が優柔不断だからです。
一度決めたのに、横やりが入ったり上司から文句が出たりするから、最後の最後まで決められない。
いや、旅行代理店に限らず、そんな企業は他にもたくさんあります。
しかし、最終日に4回も修正が入るまで極端ではありません。
それでは一体何が問題なのでしょう。
主に価格です。
海外旅行商品の場合は為替レートの変化が刻々と変わっているからです。
ちょっとした為替レートの差でも無視できないほど利益率が薄いからなのです。
商品によってはマージンが10%程度しか取れない。
そのうち、為替レートで1%も2%も利益が異なると、大きな打撃になってしまうのです。
スーパーやコンビニのマージン率は30%です。メーカーでは粗利が40%ほど。
旅行代理店のマージン率がたかだか10%というと、国内バス旅行19,800円の旅行商品では、お客さん一人で1,980円しか儲からない。
1回のツアーで100人集まっても20万円の利益しかない。
それだけではありません。その中から、人件費や事務所の経費を差し引かなければならない。
手元に残るお金などたかが知れています。
一体、なぜこうなってしまったのでしょうか。
競争激化と客のニーズの変化。それに伴う利益率の低下。
そう言ってしまえば簡単ですが、競争が激化するとどうなるか。ニーズがどう変化したのか。
これが分からないと対応のしようもありません。
もうちょっと深く突っ込んでみましょう。
手元に面白い新聞記事があります。
日経流通新聞が阪急交通社のトラピックスという人気の低価格国内外商品シリーズの躍進について書かれた9月26日付の記事です。同社は今年7月の統計では、海外旅行25.5%増と絶好調ですが、国内部門は20.1%減と業界平均の5.2%よりも厳しい状態です。それでも、外国人旅行者の伸びもあって、全体で105.8%増と代理店トップ10の中では低価格戦略で最も伸びている企業です。
まず、競争の激化が価格を下落させるということを説明します。
旅行代理業は簡単に参入できる業界です。
交通機関や宿泊施設と提携し、チラシを作ってばらまくだけだからです。ちょっとした窓口さえあれば営業ができてしまう。ノウハウといっても複雑なものはありません。個人でも旅行代理業を経験し、今までの人脈があれば、そこそこの商売ができます。
新規参入が激しいと競争が激化し、価格が下がるのが教科書で私たちが学んだことです。従って、ここまで説明すれば旅行代理店の利益率が低い理由が説明できる気になってしまいます。
どういうことか。説明しましょう。
製造業の基本は「大量生産で安い」か「手作り、少量生産で割高」かが基本ルールです。
いや、資本主義である限り多少の違いはあっても、ありとあらゆる業界がこのルールに則ります。
日本という国が資本主義である限り、この大原則は崩れることはありません。
そうなると、「最小催行人数2人」という、小旅行パックは例外なのでしょうか?
いえ、これもまた、原則に当てはまるのです。
交通費、宿泊費などすべてにわたって、大人数なら価格交渉力が高まります。
これでおわかりでしょう。
といえば聞こえはいいのですが、これは要するに